る出鱈目の用意にとりかかった時、はじめて下から音声がありました。
「茂ちゃん、もういいかげんにして下りていらっしゃい」
 その声は、聡明なる響きを持つ若い女の声でありました。

         百四十二

 下から婦人の声で呼びかけられて、清澄の茂太郎は、
「お松さんですか」
「茂ちゃん、下りていらっしゃい」
「お松さん、もう少し――」
「夜露にあたると毒ですよ」
「お松さん、あたいは、すいきょうでこうしているんじゃないのです」
「何でもいいから、もう下りていらっしゃい」
「まだ下りられません」
「どうして」
「あたいの、ここへ上っているのは、物見のためなんです」
「暗いところで何が見えます」
「天には星の光が見えます――北斗七星の上に動かない星があります、右は牡牛座で、左は馭者座《ぎょしゃざ》でございます、で、頭の上はカシオペヤでございます。カシオペヤは、エチオピア王の王妃で、お喋《しゃべ》りでございました――と駒井の殿様……ではない、船長様が教えて下さいました。ですが、あたいは今晩は、その星をながめる目的だけにここへ上ったのではないのです、ねえ、お松さん、あたいは物見のために、今
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