峠の山を遠く眺めて、歯ぎしりをしました。
今日只今ここに立って見ると、見ゆる限りは水です。この水は潮ならぬ海とはいうけれども、潮の有ると無いとを論ぜず、米友の眼では満目の海を眺めて舌を捲いたが、詠嘆の次に来《きた》るところのものは伊勢の海の風光でした。伊勢の海以来、米友は海を見たことがない。海を見たことがないとは言えないけれども、伊勢の海だけが、生涯のうち全く忘れがたなき海の印象として残されている。
ことにあの、大湊《おおみなと》の一夜――あの時に、あの晩に、お君を擁護して大湊の与兵衛の舟小屋をたずねなければ、こういうことはなかったのだ。あれがああなって、ああいう義理で、あの旅の武士のために、危機を冒してあの大湊の与兵衛の舟小屋をたずねなければ――
米友は物を見ると聯想が早い。米友のは聯想が忽《たちま》ち混線となる、混線がやがて無差別となる。一時はすべての若い女がみんなお君の姿に見えたことがある。今や琵琶の湖も、伊勢の海も、米友の頭の中ではごっちゃになり、今の時も、大湊の一夜の時も、差別がつかなくなってしまいました。
だが、本来は馬鹿でないこの男は、忽ち醒《さ》めて、そうして、
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