したものですから、わたくしも、つい、いい心持にさせられてしまいましたのです。あなたの音声に聞き惚れたのではございません、その調子がととのっておりました、米友さんの唄いぶりもおのずから練れておりました。あの唄は米友さんが長い間うたい慣れた唄に相違ありません、よく練れていました、気分がしっくりとしていました。関雎《かんしょ》は楽しんで淫せず、と古人のお言葉にありますが、大雅の声というものが、あれなんだろうと思われました、太古の民が地を打って歌い、帝力何ぞ我にあらん、と言った泰平の気分があの唄なんだろうと、わたくしは実に感心して聞き惚れていましたのに、それが半ばからすっかり壊れてしまいました。どうしてあんなに壊れたでしょう、あれほど泰平|雍和《ようわ》の調子が、途中で破れると、すべてが一変してしまいました、あなたの唄が変り、櫓拍子が変り、呼吸が変り、従って舟の動揺が全く変ってしまったのには、わたくしは驚いてしまいました。そうかといって、波風がまた荒くなったのではありません、湖の水流に変化が起ったわけでもありません、前に何か大魚が現われたという気配もございませんし、後ろから何物かが追いかけて来
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