んまりいい夢ではなかった」
「そんなこと、ありませんよ、ニコニコとお笑いになって、君、待ち給え、待ち給え――とおっしゃいましたわ。誰のことなんです、どなたをお呼びになったの、憎らしい」
 また流し目で女が兵馬を見ました。手の届くところにいたら、膝をつねったかも知れません。
 兵馬は憮然《ぶぜん》として、まだ夢から醒《さ》めきれません。
 そこで、女はいい気になって、
「おかしいわね、起きて、坐っている人がうわごとを言って、寝ている人に揶揄《からか》われるんだから、世はさかさまよ」
と言いました。
 兵馬はそれを心外なりとしました。果して自分がこの女の言う通りに、うわごとを言ったか、言わないか、それは水かけ論だけれども、眠りに落ちていた醜態を、相当の時間、この女に笑われていたことは事実だ。女の態度を見ると、もうかなり以前に目がさめて、悠々煙草を吹かしながら、じっと揶揄い気味で、自分の舟を漕ぐ様子を見入っていたのだ。
「君は、いつ目が醒めたのだ」
「わたし、お手水《ちょうず》に行きたくなって、それで目がさめちまったの――そうすると、あなたはいい心持で舟を漕いでいらっしゃる」
「うむ、そうだ
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