ら君、なお念をおして置くが、君の旅路も明日あたりから、そろそろその危険区域に入るんだぜ、気をつけ給えよ」
「ありがとう――」
「明日あたりから君、畜生谷が現われるんだぜ、しっかりし給えよ」
「畜生谷とは?」
「畜生谷を知らんのか――白山白水谷のうちに、有名なる畜生谷というところがある――そこへ落ち込んだら最後、浮み上れないのだ」

         百二十二

「さようなら、宇津木」
「宇津木君、失敬」
 二人は、ついに行ってしまいました。
 兵馬は柱にもたれたまま、それを引留めたい心でいっぱいでありながら、ついに戻れという機会を逸してしまいました。
 それは会話なかばに、とても眠くなって眠くなってたまらなくなり、うっとりと失神状態に陥ったところを、二人に無造作《むぞうさ》に立ちのかれてしまった。そこに気がつくと、何とも言えない空虚を感じ出して、そのままその座を飛び立って、戸の外へ走り出しました。
「おーい、仏頂寺君――丸山君」
 声を限りに呼びながら、兵馬は二人のあとを追いかけたのです。
 無論、そのくらいですから、草鞋《わらじ》をつける余裕もなく、有合わす履物《はきもの》もなく、戸
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