知らない面をして……不人情のようですけれど」
 芸妓《げいしゃ》の福松は、人情を立てれば身が立たない思惑《おもわく》から、兵馬を促し立てました。

         百十七

 かくて宇津木兵馬は、芸妓の福松を先に立てて、小鳥峠を下りにかかりました。
 後ろには仏頂寺、丸山の血みどろの世界がある。前には、鬢《びん》の毛のほつれた、乳のように白い女の襟足がある。
 自分の足どりが重いのは、ぐるぐると展開する地獄変の世界の悩みばかりではない、懐中には三百両という大金が入っている。これは高山の新お代官|胡見沢《くるみざわ》の愛妾《あいしょう》お蘭どののお手元金であったのを、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百というやくざ野郎がちょろまかして来て、それをこの芸妓の福松に預けて、預けっぱなしになってしまったそれです。
 三百両の金は重い、兵馬としても、今までにこれだけの金を持ったことがない。いま一緒に旅をするようになったこの女は、この金は当然、自分たちに授かったものだから、自分たちがこれからの身の振り方の用金にする――
 女は言う、三百両のお宝があれば、二人水入らずで日本中の名所めぐりができます
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