けれど、兵馬から音沙汰《おとさた》がなく、そうかといって、仏頂寺との間に、見つけた、見つけられた、という問題を起しているような形勢は少しもない。
 それだけに、福松はまたいっそう気を揉んで、隠れがの樅の木立の下を一尺離れて見たのが二尺となり、三尺となり、一間となり、二間となって見たが、なんらの動揺が起らないのです。
 とうとう我慢しきれなくなって、三間と、五間と、這《は》うようにして叢《くさむら》の中を廻って見ますと、秋草の中に立っている宇津木兵馬の姿をたしかに認めました。
 呆然として、ただ立ち尽しているのです。
 笠も、合羽もつけないで、黒い紋附に、旅装い甲斐甲斐しい宇津木兵馬の立ち姿が、秋草の乱れた中に立ち尽していることだけは、間違いなく認められたものですから、福松は我を忘れて呼びかけようとして躊躇しました。
 まだいけない。ああして、宇津木さんも、じっと様子を見て思案してらっしゃる。わたしがここで大きな声を出した日には、ブチこわしになるかも知れない。
 では、ここでもう少し、様子を見届けて……
 福松はこう思って、一心に叢の蔭から兵馬の立ち姿を見つめていると、兵馬はじっとただ地
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