置き場もない思いをして呆然《ぼうぜん》と立ちました。
 少し離れたところの、樅《もみ》の木蔭に隠れていた芸妓《げいしゃ》の福松は、兵馬が立戻って来ることの手間がかかり過ぎることに気を揉《も》み出し、
「相手が悪いから心配だわ」
 秋草の小鳥峠の十字路から、かなり離れたところの木立の蔭で、福松がひとり気を揉んでいるのは、なるほど相手が悪い。もし、先方で気取られてしまった日には、宇津木さんも袖が振りきれない。捉まってしまった日には、しつこくからみつかれてどうにもなるまい。
 宇津木さんという方は、お若いに似合わず、剣術の腕にかけては素晴らしいとの評判は、この高山で聞いているけれど、相手のあの仏頂寺という悪侍が、一筋縄や二筋縄のアクではない。
 宇津木さん、早く戻って来て下さればいい、こう思って芸妓の福松は、木蔭からちょっと首を出して、秋草の小鳥峠の十字路の方を見透そうとしたけれど、目が届きません。
 さりとて、へたに離れてこのわたしというものが、仏頂寺に見つけられでもしたら、それこそ最後――
 福松は、それを懸念《けねん》しながら木蔭を出たり離れたりして、兵馬の安否を気遣《きづか》いました
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