尾主膳は江戸に生れたけれど、江戸を知らない。知っているところは知り過ぎるほど知っているが、知らないところは田舎者《いなかもの》よりも知っていない。
 江戸の場末といっても、自分の足のつづく限りに於て、こんな荒涼なところがあろうとは思いがけなかった。夜だから、無論その荒涼にも割引をして見る必要はあるには相違ないが、それにしてもこれはヒドイ。
 だが、まだ石の大きな地蔵の像が、自分の上にのしかかった入道のように見えてならない。その荒涼たるに拘らず、大地蔵の膝元には、右の如く香煙が濛々《もうもう》として立ちのぼり、香が火を吐いて盛んなるところを見ると、宵の口まで人の参詣が続いていたに相違ない。
 いったいこれはどこの何というところだ。ただいま身を忍ばしていたのは法華寺だが、この墓地の区切りの散漫なところを以て見ると、あの一寺だけの墓地ではないらしい。こちらにも相当な寺の棟らしいのが見える。してみると共同墓地かな。両国の回向院《えこういん》ででもあるのかな。回向院ならば自分もよく知っている、どう見直しても回向院ではない。第一、回向院は寺とはいえ、もっと和気がある。回向院の墓地にはもっとよく手入
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