で、すごすごとまたここまで舞い戻って来たということが、白雲をして面食《めんくら》わせることほど、意外千万な引合せであったからです。

         十一

「どうしたのだね、君」
 あまりのことに、田山白雲が身近く寄って来たところのこの男に向って、かく呼びかけざるを得ませんでした。
「忘れ物をしました」
「忘れ物、何を忘れたのです」
「手形を忘れました、旅行券を」
「なるほど――」
 その手形というのは、さいぜん、現にここで、この男が懐中からさぐり出して役人に提示して見せたのを、現に田山白雲も見届けておりました。
 あの際、紛失したのか、或いはここを出て暫く行く間に取落しでもしたものか、いずれにしても、粗忽千万《そこつせんばん》の咎《とが》は免れない。隙のないようでも、若い者の手はどこか漏れるところがある。これから先、山河幾百里の関柵《かんさく》をあけて通る鍵だ。その唯一の旅行免状を取落して何になる。これではさすがの強情者も、浮かぬ面をして取って返さざるを得ない出来事だと、白雲も思いやりました。
 しかし、事実はここで役人に提示したのだから、これよりあとへ飛んで戻るはずはない。柳田
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