本の標本みたようなものだ。武士としては、箸にも棒にもかからぬのらくら武士だ。
 だから、その点に於ては、微塵、人も許さず、自分も許してはいない。武術鍛錬のことなどが、おくびにも周囲の話題に上ったことはないのだが、只今、偶然にも、このおっちょこちょいの口から、武芸のことが飛び出して来た。
 それを主膳は小耳にひっかけて、奇妙な気になった途端から、昂奮が少しずつ醒《さ》めてきました。
 その気色が緩和された様子を見ると、人の鼻息を見ることに妙を得たびた[#「びた」に傍点]助は、するすると神尾の間近く進んで来ました。もう打たれる心配も、叩かれるおそれもないと見て取ったのでしょう。果して御機嫌の納まりかけた神尾は、対話になってから、自分ながら事珍しいように、びた[#「びた」に傍点]助に向ってこんなことを言いかけました――
「なるほど――びた[#「びた」に傍点]公、貴様に今おだてられて、おれは変な気になったのだがな」
「変な気などにおなりになってはいけやせん、その変な気になりなさるのが、殿様の玉に瑕《きず》なんでげす」
「変な気だといって、どんなに変なんだか貴様にわかるか」
「変な気は変な気でげ
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