当るを幸い――主膳は机の上の硯《すずり》をとって、発止《はっし》と唐紙《からかみ》へ向って投げつけました。硯の中には宿墨《しゅくぼく》がまだ残っていた――唐紙と、畳に、淋漓《りんり》として墨痕《ぼっこん》が飛ぶ。

         九十九

「いや、これは驚きやした、これはまことにおそれやす――屋鳴震動《やなりしんどう》」
と変な声を出して、いま神尾主膳が硯《すずり》を投げ飛ばしたその間から、抜からぬ面《かお》を突き出したのは、例によって、のだいこのような鐚助《びたすけ》(本名金助)という男で、こいつが今日はまた一段と気取って、縮緬《ちりめん》のしきせ羽織をゾロリと肩すべりに着込んで、神尾の居間へぬっぺりと面を突き出したものです。
「鐚助か」
「殿様、いったい何とあそばしたのでげす、我々共がちょっと目をはなしますてえと、これだからおそれやす」
「鐚助、いいところへ来た、今日は朝からむしゃくしゃしてたまらないところだ、面《つら》をだせ、もっとこっちへ面をだせ」
と神尾主膳が、やけに言いますと、金助改め鐚助が、
「この面でげすか、この面が御入用とあれば……」
「そうだ、そうだ、その面
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