うわけじゃありません、今日、お婆さんが、お湯に入りに来て、それから知合いになりました」
「では、知らねえ人だね」
「はい、信州の飯田というところのお婆さんで、お富士さんを信仰なさるのだということだけは聞きましたが」
「それは、それに違えねえが、なかなかエライお婆さんだよ」
と言って、富作がこのお婆さんの身の上を、よく与八に話して聞かせました。
 松下千代女(すなわちお婆さんの本名)は信州飯田の池田町に住んでいる。鳩ヶ谷の三志様、すなわち富士講でいう小谷禄行《おたにろくぎょう》の教えを聞いてから、熱烈なる不二教の信者となり、既に四十年間、毎朝冷水を浴びて身を浄め、朝食のお菜《かず》としては素塩一|匙《さじ》に限り、祁寒暑雨《きかんしょう》を厭《いと》わず、この教のために働き、夫が歿してから後は――真一文字にこの教のために一身を捧げて東奔西走している。その間に京都へ上って皇居を拝し、御所御礼をして宝祚万歳《ほうそばんざい》を祈ること二十一回、富士のお山に登って、頂上に御来光を拝して、天下泰平を祈願すること八度――五畿東海東山、武総常野の間、やすみなく往来して同志を結びつけ、忠孝節義を説き、
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