場限りの景物でありました。
 それから右のお婆さんは、与八にお礼を言って、自分は信州飯田の者である、右のような次第でお富士さんへ参詣して来たが、これから故郷の信州飯田へ帰る、お前さんもどうか、そのうち都合して、ぜひ飯田まで遊びに来て下さい、飯田へ来て松下のお千代婆さんと言えば、直ぐわかる。
 待っているから、ぜひ都合して遊びにおいでなさい――と懇《ねんごろ》にすすめました。
 そこで与八も、どのみち末始終は旅に出づべき運命の身だと心得ているから、いつかお婆さんの故郷、信濃の国の飯田へ行ってみようという気にだけはなりました。
 いざ出立という時に、与八は、
「わしも今日は竜王まで、ちょっくら用事があるから、一緒にお送り申しましょう」
 かくて与八は、またも郁太郎を背負い、お婆さんと道づれになって、ある程度までお婆さんを見送りながら、自分は自分の用足しをして帰ろうという門出です。
 お婆さんは、自分のかぶっていた菅笠《すげがさ》を、与八のためにと言って残した。その笠には、富士のお山のおしるしもあれば、お婆さんの故郷、信州飯田――池田町――松下千代と書いてある。
 それをお婆さんの記念《かた
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