しまったのが、自分のためには、わざわざ飛脚の役をつとめてくれたようなものになっている。
 それにしても、父が何のために、どうして旅立ちをする気になったのだろう。そんなことを考えつつ、行燈《あんどん》を朧《おぼ》ろに薄めて、やがて夜具をかついであけ方を深き眠りに落ちて行ったようですが――次の間ではもうその以前に夢を結んでいるらしい。

         八十三

 伊太夫が旅立ちをしたあとの留守居を引受けた与八の、また一つの社会事業としての、浴場公開のことがありました。
 古来、伊太夫の屋敷のうちには有名なる温泉がありました。温泉といっても、そのままで入湯のできるまでに熱い湯ではありませんでした。温度四十五度内外のものですから、いったん沸かして入らなければならないのですが、それでも効目《ききめ》は大したものでありました。少なくとも大したものとして遠近《おちこち》に伝えられて、以前は、ほとんど公開の設備をしていたのですが、伊太夫の後妻を迎える前後になって、公開をやめて自家用だけにしておりましたのが、なお特に希望して来るものが多かったのですが、一人に許すと百人に許さなければならぬという道理で
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