始末が大変である――小指一本だけなるが故に、あの盗人《ぬすっと》めも自分で自分の身体を始末して行ってしまったし、あとの掃除も人手を借らずに、こうしてあっさりとやって行ける。それを寧《むし》ろ勿怪《もっけ》の幸いとして、畳の上から次の部屋に至るまで、血の滴りを拭うことの労を厭《いと》いませんでした。
件《くだん》の血の滴りといっても、あの屏風の下から、この女王の部屋を横断して、次の間の或る程度で止まってしまっているものですから、極めて容易《たやす》い掃除で済みました。
それが済むとお銀様は、ならず者が置き放して行った一件の脇差を静かに取り上げて、机の前へ端坐してながめました。まさしく自分の父の愛用の道中差に相違ない。物を盗《と》りに来て物を置いて行った盗賊の間抜けぶりも笑止といえば笑止だが、あの図々しさは法外である。時が時、場合が場合でなければ、わたしたちはどうなったかわからない。
それに、もう一つ笑止千万なのは、今のあのならず者が、わたしの父の伊太夫が旅をしてこちらへ出て来ていること、しかも、自分と眼と鼻の間の大津に宿を取っているということまで、嘘かまことか喋《しゃべ》って行って
前へ
次へ
全551ページ中229ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング