耳をそばだてざるを得ません。
 前にいう通り、もう立派な深夜です。この二人のほかに、このだだっ広い屋敷に起きているものはないはずです。二人もその心持で、あたりの空気を動揺させない程度で会話をしていたのですが、この二人のほかに、もう一つ忍び足のあることが、たしかに今のミシという音で気取《けど》られました。
 そこで、お銀様ほどの人が思わず耳を聳《そはだ》てていると、先方も、もう気取られたかと観念したのか、もうこの辺で術を破ってやろうとでも覚悟したのか、ミシ、ミシ、ミシと、本格的に廊下を踏んで、早くもお銀様のいるもう一つの部屋まで来てしまって、襖越しに、
「今晩は、もうお目ざめでいらっしゃいますか」
 極めて低い猫撫声です。そして男の声なのです。
「誰ですか」
とお銀様が屹《きっ》と向き直りました。
「へ、へ、つい、その、ちょっと失礼をいたしました」
「誰ですか、あなたは。何のためにこんなところへ来たのですか」
「へ、へ、ついその、何しましたもんでございますから」
「わかりました、お前はここへ盗賊に来たのですね」
「いや、そういうわけではございませんが、つい、その、へ、へ」
「お帰りなさい
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