ると、やおらこれを引抜いてしまうと、いつのまに用意してあったか、傍らの乱れ籠の中から一掴《ひとつか》みの紙を取り出して、左に持ち換えて引抜いた脇差の身へあてがうと、極めて荒らかにその揉紙《もみがみ》で拭いをかけはじめました。拭いをかけるというよりは、紙をあてがって荒らかに刀を押揉んでは捨て、揉んでは捨てているようです。脇差一本を拭うとしては、荒らかな、そうして夥《おびただ》しい揉紙を使用して、その使用した揉紙をけがらわしいものでも捨てるように傍らへ打捨てて、次の紙を取り上げ、取り上げ、刀身を揉み拭うている。
特にこういう神経的の挙動にも相当理由のあることで、これは昨晩、思いがけずこの脇差一本で幾頭かの餓えたる犬を斬りました。畜生の血が残っている。それを揉み消し拭き消さんがために、かくも必死に、しかも相当神経的に刀身を拭っていると見るべきでしょう。
七十四
そうしているうちに、不意に一方の廊下でミシという音がしました。
僅かにミシという音だけでしたけれども、その気配は猫でもなければ鼠でもない、まさしく人間であって、板を踏む気配でありますから、その気配にお銀様も
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