ないのじゃない、あなたが衰えたのですよ」
「そうかなあ」
「でも、考えてごらんなさい、あなた、甲府の城下でも、江戸の真中ででも、いつ、いかなる場合に於ても、犬に吠えられたことのないというのが、あなたの御自慢ではなかったのですか」
「そう言えばそうだ」
「ところが、この長浜へ来ては、ああして昨晩も、また今晩も、犬につけつ廻しつされていらっしゃる」
と、二人の深夜の問答は、専《もっぱ》ら犬のことで持切りなのであります。
「そう言われれば、いよいよそうだ、拙者は今日まで、夜な夜な独《ひと》り歩きをしても、決して犬に吠えられなかった、犬に吠えられないのみか、時としては犬から慕い寄られたことさえある、それが、この長浜というところへ来てみると、最初の晩から犬の災難だ、それが癖になって、犬がついて廻るようだ、今晩もまたこの一念が出ると、不思議に近いところで犬が吠える――この一念が納まると、犬もまた吠え止む――こうして犬に吠えられたり、送られたり、とうとう獲物にはぐれて、ここまで犬に送りつけられてしまった」
「よくわかりましたよ、わたしがこうして耳をすましておりますと、あなたが、町のどの方面から、どの
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