れて鳴る音なのでした。
 つまり、宵の口に出て、今時分になってこっそりとたち帰り、四方《あたり》の空気を驚かすまいために、出入り、立居ともに極めて静粛であったのですから、そのささやかな刀の鞘のカチリという音だけが鮮かに聞えたのですから、これは刀を腰から外《はず》して、そうして刀架へでもちょっと移す途端のさわりであったらしい。
 それからまた静かになると、お銀様の方もまたいよいよ静かなもので、机に向ったまま動こうともしなければ、二の句をつごうともしないのです。
 しかし、いつのまにか、鳴きつれて来た犬の遠吠えの次第送りは止んでいました。
 お銀様の部屋には、こうして時代のついた丸行燈《まるあんどん》が明々とともっている。桐の火桶の火もさびしからぬほどに生かされているのに、隣の室には明りがない。
 こうしているお銀様は、申すまでもなく覆面をとっていないのです。お銀様の覆面は、一時流行したお高祖頭巾《こそずきん》といったあれなのです。黒縮緬を釣合いよく切らせて、上手に巻いている。寝るから起きるまでの間、お銀様の面《かお》から覆面のとれたのを見たものはほとんどない。ことによるとこの人は寝る間も
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