を人が通りました。
「お帰りになりましたか」
もう充分の心得があって、水の流るるが如き応対。
「は――」
と、お銀様の後ろの廊下を通り魔のように通るところの者が、軽い咳と間違えられるほどの応答で、通り過ぎてしまいました。
後ろには秋草を描いた襖《ふすま》がある。それを隔てての問答だから、そちらの姿は更にわからない。
だが、そのまま次の室へと歩み入って、そこへ、極めてしとやかに身を置いたことだけは確かです。
してみると、この場には、お銀様と隣り合ってもう一人の客がいたのだ。その客が、多分、宵の口から外出していたものだから、このすべてがお銀様一人の舞台として占められていた感じでしたが、たとえ室を別にしたからといって、相客があったこととして見ると、全体の風情がまた一変しないでもない。しかし、双方ともに熟しきっていると見えて、いよいよ静かな応対のみであります。「お帰りになりましたか」「は――」これだけの問答で、あとはまた、全く静かな深夜の空気を少しも動かすではありません。
しばらくすると、その隣室でカチリと物音がしました。刀の音です、刀の鞘《さや》の音なのです、刀の鞘がちょっと物に触
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