らに現われたそれが、すばらしいのです。行成の仮名の線にのみ存するところの斬鉄《ざんてつ》の鋭さが、そのままに現われている。古来、これほどに、さながら行成の骨法を現わした文字は無い――と、見る人が見れば驚歎するかもしれないが、お銀様としては、自分で書いた文字に自分で己惚《うぬぼ》れている余裕はない。
 すべて、芸術というものは、自分のものした芸術に、自分で惚れ出したらもうおしまいです。
 お銀様は、自分のものした文字の出来が、今晩はそれほど神《しん》に入《い》っているということを自覚もなにもしないで、そのままポンと机の左上隅の方に置据えて、これを明朝になったら胆吹の山の留守師団長なる不破の関守氏の許まで届けさせる。
 それだけの手軽い動作で、次に硯《すずり》の蓋をしにかかりました。硯箱も、蒔絵も、相当時代ものではあるが、お銀様は無意識にその蒔絵模様に眼を落しながら、硯の蓋をしてしまうと、はじめてホッと軽く息をつきました。
 さきほどから、吠え連ねていた犬の遠吠えが、いつのまにか送られて、ついこの宿の裏まで来ている。

         七十

 お銀様が、ふっと振返ると、自分の後ろの廊下
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