なく、一箇の犬が物におびえて遠吠えを試みると、それから次々に影を見ない犬までがその声を迎えて吠えつぐものですから、それで遠吠えが次第次第に近くなって来るというわけなのです。
 ちょうど、宿つぎに犬が鳴き渡っているようなもので、すべて眠りに落ちている町の人は、誰も気づきませんけれど、お銀様だけが、長い手紙を書きながら、その鳴きつれる犬の声に耳を傾けておりました。
 お銀様は、手紙の上封じをして、それに、「不破の関守殿、まいる」と書きました。そうして、自分の名のところへ、「しろかね」と、行成様《こうぜいよう》の仮名で達者に認《したた》めました。それを見ると、素晴しい筆勢だと思わないわけにはゆきません。
 行成を学んでも、その骨法をうつし得るものは極めて稀れです。大師の文字に入木《じゅぼく》の力がありとすれば、行成の仮名には骨を斬るの刃がある。お銀様が、今ここにかりそめに書いた「しろかね」の文字は、けだし、己《おの》れの名とするところの「銀」の一字を和様に洒落《しゃれ》たものであることは疑うわけにはゆかないが、さっ! と一筆に横なぐりに刷《は》いた筆線に、行成の骨法が、故意か、偶然か、さなが
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