え五代将軍が保護は加えないにしても、繁殖は盛んでありました。だから、犬は善良なる交通人のための大なる恐怖でありました。白昼に於て然《しか》り、夜に於てなおさらに。
自分の行手から、餓えたる犬が群がって来たのでは、これを邀《むか》えては事面倒だし、うっかり後ろを見せればつけ入られる。相手が悪い――とでも思ったのでしょう。第二の悪魔、すなわち覆面の姿は、内心苦笑をしながら松の木の下に立ち尽して、けがらわしい相手をそらしてしまおうとでも思案したのか、そのまま動かない。
不思議なことには、こうして、この覆面が針のように立ちつくしてしまっていると、呼吸が騒がないし、有るかなきかを超越した存在となるのである。そうでなければ、犬はきっとその影だけを見て吠えるに相違ない。善良なる犬に於てもそうです、まして餓えたる犬に於てをや。
犬が吠えないのは、人の存在を認めないからです。人の存在を認めないのは、人の呼吸を気取《けど》らないからです。松の前に立っている黒衣覆面の人は、見ようによっては松の幹の中に吸い込まれてしまっている人のように、取りようによっては、松遁《しょうとん》の術をでも使い出して、しばし
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