いわんや、いかに善良なりとはいえ、畜類である犬に於てをや。この場へのそりのそりと二頭の犬が現われましたけれども、その二頭ともに餓えておりました。
 餓えているのは、これを保護する人がないからです――これに食物の保証を与える者がないからです。つまり良家の飼犬でなくして、喪家《そうか》の野良犬であったからです。二つの野良犬が餓えて食を求めに来ました。生きている者は本能的に生存権を要求する。自己の生存権が不安である限り、他の生存権をも脅《おびやか》そうとする。
 のそりのそりと飢えたる二つの犬が、前後してこの場へ侵入して来たと見ると、それから五六間おいて、またのそりのそりと二つの犬が前後して現われて来ました。それを見送っていると、次にまたのそりのそりと二頭、三頭――野良犬が前後して、鼻を鳴らしながら、飢えた足どりよろよろとして、同じ方向に向って繰込んで来るのです。
 これがために、松の根方に突立っていた第二の悪魔が、引込みがつかなくなりました。
 江戸時代の御府内に於ての道路の難物は、犬と、生酔いとでありました。その当時は犬に税金がなく、鑑札がなく、また犬殺し家業がありませんでしたから、たと
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