以上の音は語を成さない。
 頭からか、尻尾からか、それは知らないが、ボリボリと食われているのだ。
「ひーひーひー」
 あ、あ、あ、というのが、ひー、ひー、ひーと聞える。
 必死に悶《もだ》えている。必死に反抗している。しかし、それは何でもない、蛙も蛇に呑まれる前には相当反抗する。ただ絶叫と悲鳴との限りを尽して抵抗するのと、声をあげる機関を妨げられての上で暴行を加えられるのとの相違があるまでで、その極力必死の抵抗だけは同じことなのですが、
「く、くるしい! うーん」
 やっと、これだけの声が女の口から出ました。あとは烈しいうめきです。
 抉《えぐ》られている――それは胸か、腹か、腸《はらわた》か知らないが、両刃《もろは》の剣をもって抉られた瞬間でなければ出ない声だと思われる、大地を動かす呻《うめ》きでした。
「く!」
 断末魔の身動きをするらしい。
 ずっと昔のこと、甲州の八幡村で、新作さんという若衆《わかいしゅ》の許婚《いいなずけ》の娘が、水車小屋から帰る時、かような苦叫をあげたことがある――最近には……

         六十

「玄関の松」の裏で、女の虫の息が糸を引いて全く微かに
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