い余って、いきなり、わが子を入れた籠に飛びつくかと思うと、存外、冷静でありました。
その冷静ぶりは、むしろ、捨てたわが子の籠を目的としないで、そそり立つ松の大木の幹へでも抱きついてみたいというような気分で走りかかったことも、不思議の一つでしたが、籠の直ぐ一歩前、ちょうど松の大木の幹の下へ来てみると、そこで、いきなりわが子へ飛びつきもしないし、頬ずりもしないで、何か事の不思議そうに、突立ったままで、ずっと闇を透かして、この幼な児の人生の笑いを見つめていました。
こんな緩慢な挙動は、断じて人の親の挙動ではない。
第三者が偶然に、何か驚訝《きょうが》すべき事件を路傍に認めて、ふと足を止めた挙動に過ぎない。わざと芝居をして見せるのでない限り、母たるものがこんな思わせぶりを、この際わが子に向って為すべきはずがない。
そんなことには頓着なく、この子はほほ笑みをつづけておりました。
他目《よそめ》には、母親でなければならぬと想像されるところの女の人を傍らに置きながら、母よと呼ぶのでもなければ、乳をとせがむのでもない。相変らず天空の爛々《らんらん》たる星を仰いで、ひとり笑いに笑っている。
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