かけの松」と名をつけられていたし、厳如上人《げんにょしょうにん》はまたこの松をなつかしがって、「昔の友」と呼んだくらいですから、なみなみならぬ由緒《ゆいしょ》を持っている。前の大手門を、台所門として移したと同時に、この松もここへ移し植えられている。高さ五丈五寸、枝張五十三間を数えられる玄関の松なのです。
 大通寺の境内は広く、規模は大きく、その中に本堂があり、表門があり、裏門があり、庫裡があり、書院があり、経蔵があり、鐘楼があり、鼓楼があり、盥漱所《かんそうじょ》があり、香部屋《こうべや》があり、蘭亭があり、枕流亭《ちんりゅうてい》があり、新御殿があり、土蔵があり、示談講があり、総会所があり、女人講があり、茶所があり、白砂会所《しらすなかいしょ》、二十八日講、因講《ちなみこう》までを数えると、ちょっと一息には言えない建物があるのですから、その一角で、この深夜、ひとり捨てられた人の子が、全力を尽して号泣していたところで、いずれの隅まで反応して人の眠りを驚かすか、甚《はなは》だ怪しいものであります。ことに、この捨てられた子が、因果におとなしい子でありまして、一旦は咽び泣いたり、また号泣した
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