になるのでございます」
「ああ、知らなんだ、知らなんだ、そういうことでここで殺されるとは夢にも知らなんだ、ああ、ここで死にたくはない、盗人追剥に殺されようとも、貴様の手にはかかりたくない、だが、どうも仕方がない、この敵《かたき》、この恨み、この仇《あだ》――人はいないか、誰か通りかかりの衆でもないか、ああ、誰も人はいない、人がいなければ鳥でもいい、獣でも、虫でも、いいが……あいにく、この雨、蟻《あり》んどう一ついない、ああ、ここで死にたくはない、こいつにだけは殺されたくない――誰か、何か……」
と頻《しき》りに苦しみもがいたけれども、今いう通り頼むべき人はもとより、生ける物とては蟻一つ見えはしない。ただ断末魔の眼に入るものは、今もしきりに降っている豪雨が、小屋の庇《ひさし》から滝のように流れ落ちて、それが水溜りに無数の泡を立てて、芋《いも》を揉むように動揺しているだけのものです。
「泡《あぶく》、泡、泡……泡《あわ》んぶく、おお泡んぶく、敵《かたき》を取ってくりょう、泡んぶく、お前敵を取ってくりょう、敵を取ってくりょう」
と叫びながら、とうとう番頭の手にかかって無惨の死を遂げてしまいました。
 ここまで来ると、若い番頭も全く度胸が据わって、主人の死骸は、あたりへ穴を掘って、手際よく埋めてしまい、証拠に残りそうなものも、ゆっくりと整理して、かえってはればれしい気持で、あのたっぷりしたお内儀《かみ》さんの面影だけを頭にうつらせて、胸を躍らせながら、甲州路に向いたのです。
 そうして、途中で程《てい》よく主人の位牌をこしらえて、主家へ戻って参りました。
「お内儀さん、まことに残念なことを致しました、悲しいことでございます、旦那様は、ふとした病が嵩《こう》じて旅でお亡くなりになりました、私がついておりながらも、こればっかりはどうすることもできませんでございました、どんな用心を致しましても病にだけは勝てないのでございます。でも、せめての心やりは、わたくしが御最期《ごさいご》の時まで附ききりで、できるだけの御看病を致しましたことだけでございます。全く、わたくしはお内儀さんになり代っての分までも、旦那様の御看病に尽しましたが、寿命と申すものは、人の真心《まごころ》だけでは、どうにもならないものでございました。お寺様に頼んで回向供養《えこうくよう》を怠りなくつとめ、この通りお位牌をいただいて帰りました」
 こう言って涙を流して若い番頭が申し述べるものですから、さすがのお内儀さんも、よもや偽《いつわ》りとは疑うことができませんでした。一つの罪を完成してみると、それからの狂言もうまくなるものと見えて、本来さほどの悪者ではなかった若い番頭も、もはや全く悪党としての度胸に仕上げを加えてしまったのです。そこで、お内儀さんをも涙ながらにあきらめしめました。
「そういうことで、どうも、いくら歎いても仕方がありません、お前が、わたしに成り代ってまで、そうして看病に手を尽してくれたのが仏へ何よりの供養と思います。何かほかに遺言はありませんでしたか」
とお内儀さんからたずねられて、若い番頭はもじもじ[#「もじもじ」に傍点]として、
「はい、御遺言のところも、ほぼ伺うだけは伺って参りましたが……」
と言って、なんとなく口ごもる物々しい態度を見て、お内儀さんがおしてたずねました、
「旦那の臨終におっしゃったことを残さず話して下さい、それが、わたしたちの利益になろうとも、不利益になろうともかまいません、旦那の臨終におっしゃったことはいちいち遺言として、善悪にかかわらず、わたしはそれに従って生きたいと存じます」
「それではお内儀さん、旦那様の御臨終の前におっしゃったことを、一切隠さず申し上げてしまいますから、お気にさわりましても御免くださいませ」
「何のわたしが気にさえることがあるものか――何かべつだんに遺言としての書附がなくても、信用しているお前の伝えることは、そのまま主人の言いつけとして、わたしはその遺言に従わなければなりません」
「では申し上げますが、旦那様が、いよいよいけないと御自分でもお気がつきなされた時に――私を枕もと近く呼び寄せなさって、これ新蔵、わたしはもうどうしてもいけない、旅でこうして果てるのは残念千万だけれども、天命いたし方がないによってあきらめるが、あきらめ兼ねるのは国もとにある妻子のことだ、あれもほかにたよる身寄りとてもなく、あったところで、うっかりと親類身よりに任せれば、かえって散々なことにされてしまってかわいそうだ、その妻子のことだけが心残りになって仕方がないと、おっしゃいました」
「それはそうおっしゃりそうなこと、やっぱり旦那も人情の人でした。全く旦那が心配なさる通り、わたしたちの身の上というものは、これからどうなることでしょう。で、それからお前は何と返事をしました」
「それからでございます、私も、何と御返事を申し上げてよろしいかわからないでおりますと、旦那様がわたくしを、もっと傍へ寄れとおっしゃって、それからでございます、お内儀さん、お気にかけられては私が困りますが……」
「何の気にかけるものか、お前の言うことは即ち主人の言うことと、さっきからあれほど言っているではありませんか」
「では申し上げてしまいますが、その時に旦那様が、わたしの耳へ口をつけるようにしておっしゃいましたのは、今いう通りの次第で、親類身寄りというも、あとを托するほどの心当りはないのだから、お前にひとつ、迷惑でも、一切わたしに成り代って、この後のあの家を見てもらいたい、身代も、商売も、引きついでもらえまいか、それについて、お前には気の毒だが、あのわしの女房も、子供こそ二人あるが、まだ老いたりという年ではなし、お前が……」
「まあ」
「お内儀さん、旦那様がそうおっしゃいました、お前、年に少し不足はあろうけれども、いっそあれと一緒になってくれないか、そうしてもらえば、家も、商売も、女房にも、みんな安心してあとへ残して、行くところへ行けるのだが、とこうおっしゃって、息をお引取りになりました」
「まあ……」
 その時、お内儀さんは真赤になってしまいました。
 もとよりこのお内儀さんは、出立間際に、若い番頭に向って、ああいうことを言ったけれども、なにも本心からこの男を好いて不義を働こうとしたわけではなく、主人の浮気おさえの目附役として、番頭を手なずけて置きたいという女心に出たものなのでしたが、事態がこう急転してみると、まるで演劇の廻り燈籠《どうろう》を見せられるように目がくらんでしまいました。
 しかし、好きこのんで行うわけではないが、真に憎い奴というわけでもない、若い番頭からこう言われてみると、なるほど、それがまた主人の本心であったかも知れない、へたに親類身よりに荒されるよりは、気心も心得ているし、商売ものみこんでいる、この若い番頭のほかには、いよいよとなると頼みになる者はない――と主人も心づいたというのが無理にも聞えないし、自分にしても、そう思われないことはない。
 そうして、お内儀さんは、とうとうこの若い番頭に許してしまいました。
 許してしまってみると、自分より年下でもあるし、また働きもあるし、子供たちの面倒も見てくれるし、若い身空を後家入りをした番頭のために、こっちよりも、向うを可愛ゆく思って、夫婦仲も極めてよろしく、そうして三年の間に、二人の間にまた一人の子供まで出来、商売もいよいよ繁昌し、家内も、平和と、無事と、愉快とで過ごして行きましたが、これがこの分で通れば、世の中には神も仏もございません。
 三年目に、死んだ主人の法要をして、夫婦してお寺参りを致しました。

         六十八

 その日の法要が済んで、いざ帰宅という間際になると大夕立です。
 お寺の本堂の庇《ひさし》から流れ落ちて、庭の小溜りに夥《おびただ》しい泡《あわ》んぶくが動揺しているのを、雨をやませながら、右の若い番頭が見るともなしに見やると、その昔の凶状のことを思い出してゾッとしました。
 あの時の光景が、まざまざと眼に浮んで来ました。主人が苦しみもがく断末魔の表情と、頼むにも、訴えるにも、生き物という生き物が一つも見えない苦しまぎれに、眼前に漂うあの泡《あわ》んぶくを見て、「泡《あぶく》、泡、泡、泡んぶく、おお、泡んぶく、敵《かたき》を取ってくりょう、泡んぶく、お前、敵を取ってくりょう、敵をとってくりょう」
と絶叫した主人の、血みどろな形相《ぎょうそう》を想い出すと、さすがにいい気持はしないで、一時は面色《かおいろ》を変えてみたが、それが静まると、かえって今度は反抗的に、一種の痛快味をさえも覚ゆるようになりました。
 笑止千万なことだが、泡んぶくを頼んでも、いまだに敵を打てはしない。身上も、商売も、そっくり譲り受けた上に、あのお内儀さんを、忠実無類のわたしの女房として有難く納めている。これでも罰は当らない、ほんとうに御主人にもお気の毒なわけだが、泡んぶくにもお気の毒だ! こういう魔性《ましょう》が心の中に頭をもたげると、思わず面の表情に現われて、庭の泡んぶくを見ながら、思わずニッと笑いました。その笑い方が、さげすむような、あざ笑うような、たんのうするような、何とも言えない複雑な表情をして見せたものですから、傍にいたお内儀さんが、変な気になりました。昔は召使、今は夫として仕えているこの若い男が、泡んぶくを見て、ひとり変な笑い方をした、その意味がちっともわからない。それを気にしながらそれでも雨をやまして、無事に自分たちの家へ帰って来ました。
 その晩の寝物語にです、お内儀《かみ》さんは、この疑問を若い夫の上に打ちかけてみました、
「お前さん、さっき、お寺の縁で庭の泡んぶくを見て、変な笑い方をなさいました、あれは何の意味だか、わたしにはわかりません、思出し笑いというのは罪なものだそうですから、話しておしまいなさい、白状をしないと承知しませんよ」
というようなことを、甘ったるく問いかけたお内儀さんの心では、今では無二の可愛ゆい夫になっている男――思出し笑いは罪だというのは、深いさぐりの心で言ったのではない。思出し笑いそのものには、男ならば女、女ならば男との味な思い出の名残《なご》りとかいったような意味で罪の深いことになっている、友達の間でそれを発見された時には、相当に奢《おご》らなければ済まない。夫婦の間でそれを見つけられた時は、相当に嫉《や》かれてもやむを得ないという意味で、お内儀さんが、ちょっと嫉いてみた程度のものでありました。
 寝物語に甘ったるく問いつめられると、もう、すっかり高上りしてしまった若い夫は、いい気持になって、直ぐには返事をしないで、頭の中でこんなに考えてみました――
「あれから、もう三年だ、身上《しんしょう》と商売はもとより、この女房が、もうすっかりおれのものになりきって、二人の間に子供まで出来ている、たとえ、この場へ、もとの主人が生き返って現われたところで、このお内儀さんの心はこっちへ傾いてしまっているから、手を貸して殺せと言っても否《いな》やは言わないにきまっている。そのくらいだから、もう話しても大丈夫だ、あの時のことをすっかり打明けてみたところで、どうなるものか、かえって、よく思いきってやって下すった、そのおかげで、今日こうしてお前さんと楽しい夢が結べる、ほんとにお前さんは度胸もあり、腕もあるお方――と言って、また惚《ほ》れ込んでしまうだろう。一番、ここで打明けて話してやれ」
という気になって、それから、若い夫は寝物語に、ぐんぐんと昔語りをぶちまけてしまいました。
「実はお前の前の亭主は、わたしのためには御主人であるお旦那は、病気で死んだんじゃない――わたしが殺したのだ」
 お内儀さんは、恐るべき沈黙をもって、若い亭主の自慢がてらの旧悪の告白をすっかり聞いてしまいました。
 その結果は意外でした。
 お内儀さんは、その場でムキに怒って、直ぐにお上へ訴えて出たのです。
 それから二人が召捕られて、とうとうあの通り磔刑《はりつけ》にかかって、穴の掘り手の
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