置き捨てられた二つの物。
「ごらんになりますか」
と言って幸内は、そろそろ歩みよって、まずその一方の薦を、ちょっと刎《は》ねのけて見ると、刑余の死人のその男の方と覚しいのがまず現われました。お銀様は、やや長いことそれに目をつけていたが、
「おや、この男はお前によく似ている」
「お嬢様、こちらの方もごらんになりますか」
と言って幸内は、男の方のにしずかに薦をかぶせて、他の一方の薦をしずかに払って見ると水々しい女。しかも、前の若いのとは年齢に於ても、だいぶ隔たりのありそうな大年増。それもなかなかかっぷくもよく、品格もある相当大家の奥様といっても恥かしくないほどの女房ぶりでした。
前の男の方のを見ては、これはお前によく似ていると幸内に向って言ったお銀様も、この女の方を見ては、義理にも、わたしに似ているとは言えないほどの隔たりがあるのであります。
「でも、どこかで見たような人だ」
お銀様はこう言ったけれども、さりとて、どこの誰だということが、はっきり頭にうつって言ったのではありません。
そのうちに幸内は、また薦《こも》を卸してしまって、
「では、お嬢様、これからおともを致しましょう」
「行きましょう」
ここで、お銀様は幸内を召しつれて、ようやくこの墓地を通り抜けにかかりました。
幸内はおともをすると言ったけれども、どこへ向ってということに駄目も押さず、お銀様も幸内を召しつれたけれども、これからどこへと目的地を示すでもありません。しかし、まもなくこの陰惨不祥なる「墓穴」の地だけは完全に脱出すると、こんどはまた胆吹の裾野が瞭々として、秋の花野が広々として、琵琶湖が一面に水平線を立てました。その中を、お銀様の後ろに従いながら、幸内は、
「お嬢様、あれがあぶく[#「あぶく」に傍点]の仇討なんでございます、わたしが、お嬢様のお小さい時にして上げた話でございますが、多分お嬢様はお忘れになったことと存じますから、また改めてお話し申しましょうか」
「あぶくの仇討――そんなこと、聞いたようにもあるけれども、全く思い出せない、お前またくわしく話して聞かせてちょうだい」
「はい、承知いたしました」
この時のお銀様の頭の中は、もう胆吹の新領土の女王でもなく、あたりに展開する薬草の多いという花野もなく、前に水平線を上げている琵琶の大湖もなく、故郷の有野村の邸内の原野を歩む女としての、やんちゃとしての、驕慢にして、しかも多分の無邪気を持った処女として現われました。昔はこういう時に幸内を召しつれて、よく幸内の口から世間話や、昔話を聞かせられたものでした。唯一の愛人としての幸内は、またお銀様にとって唯一の話し相手でもあれば、また唯一の知識の供給者でもあったのです。幸内と火桶を囲んで夜更くるまで話していたこともあれば、野原をむやみに散歩して、幸内をむやみに叱ったり、困らせたりして、やがてまた自分が済まない気になって、泣いて幸内にお詫《わ》びをしてみたりなんぞしたことも絶えずあったのです。
もう、今も、昔も、ありし人も、亡き人も、ごっちゃになってしまったお銀様の頭では、何はさて置き、幸内の口から再び、或いは現実的であり、或いはお伽噺《とぎばなし》の国の話である物語を聞くことの、うれしさ、床《ゆか》しさに満たされてしまいました。
六十六
そうして、今、幸内が語り出すところの「泡《あわ》んぶくの仇討物語」というのを、幼な馴染《なじみ》に聞いた昔語りの気分と、すっかり同じ心持になって、時々まじる甲州言葉までが、時とところを超越したお伽噺の世界に自分を誘うように聞きなされるが、そうかといって語り出すところの物語であり、お伽噺であるところの話の本質は結局、甚《はなは》だめでたいものではないのでありました――
昔、あるところに旅の商人がありました。
いつも、若い番頭を一人つれて太物《ふともの》の旅商いに歩き、家には本来相当な財産がある上に、勤勉家でもあり、商売上手でもありなかなか繁昌したものです。
ところが、留守を預かるそのお内儀《かみ》さんの心の中が穏かでありませんでした。
「うちの主人は、ああして、商売上手に諸国へ出張して儲《もう》けて来るが、あんな若い番頭を連れて歩いたのでは、いつ番頭に誘惑されて色里へでも引込まれ、または旅先で、あだし女をこしらえてはまり込み、売上げも、元も子もないようにされてしまう場合がないとは限らない」
というような思い過ごしと、女の浅はかな心から、これは早くこちらから先手を打って置く方がたしかだと、思案を凝《こ》らしたその思案というのが、やっぱり、女の浅はかに過ぎませんでした。
これは何しても、あの番頭をこっちのものにして手なずけて置くに限る、そうすれば、旅先で、旦那の目附役にもなり、家へ帰っては自分の味方となる――それに越したことはないと考えて、夫との間に二人の子供まであるのに、その若い番頭に色気を見せて、手なずけにとりかかりました。色気を見せたといううちに、まだ不義を許したわけでもなんでもないが、落ちるような風情《ふぜい》を見せて、番頭に気を持たせながら、引っかけて行ったものに違いありません。
「ねえ、わたしも、旦那がああして商売に精出して下さるから有難いことは有難いが、どうも商売にばかり凝《こ》って、家のことを心配して下さいません、わたしというものも、子供というものも、あってないようなものなのです。本来、情というものが乏しい人なんだから、わたしもそれを思うと心細い。そうして、ああいうように、絶えず旅から旅を廻っているうちに、もしかして、よその女にでも情をうつすようなことになっては、わたしたちの身の上はどうなるかわかったものではありません。それを思うと全く、わたしは二人の子供をかかえて路頭に迷わなければならないようになるにきまっています。親類も、身よりも、たよりになるものはなし、そうなると、味方としてはお前を頼むよりほかはないから、後生《ごしょう》だからお前はよく旦那様のお守役をするといっしょに、わたしの力にもなって頂戴、もし旦那様に万一のことがあるときは、わたしはお前ばっかりが頼りなのだから……」
二人の子供がありとはいえ、まだ水々しい年増《としま》の主人のお内儀《かみ》さんから、こう持ちかけられると、若い番頭の胸は躍《おど》らないわけにはゆきません。何か知らん甘い、そうして空怖ろしい戦慄が全身に起りました。
「お内儀さん、御安心なさいませ、わたしが附いて行く限り、決して旦那様を悪い方へお導くようなことは致しません、それに旦那様も、全く旅でお固いのですから、どう間違ってもお内儀さんの御心配になるような事態が引起されるはずはないのでございます、それは、わたくしが固く保証を致しますから、御安心下さいませ」
「だが、お前、人の心というものは、いつどう変るかわかったものではありません、固いといった人が道楽を覚えると、かえって遊びをした人よりも深くはまり込むこともあるのです――そうでなくても、もし旦那様が旅で御病気になるとか、盗賊追剥にでも害されるようなことがあったとしてみると、それからのわたしは、どうしましょう」
「それはお内儀さんの思い過ごしでございます、旦那様に限っては、旅先で悪所通いをなすったり、よからぬ女にはまり込んだりなさるような心配は決してございませんし、わたしがお附き申していて、決してそんなことはおさせ申しませんが、万一、旅先で御病気になるとか、盗人追剥などのために、まあ、御災難を思いやっていては際限がございませんけれど、もし、そんな場合があったと致しまして、わたしが残っているような場合がありましたならば、わたくしがどこまでもお内儀《かみ》さんの力になって、旦那の御商売をついで、御一家をお立て申して上げますから、御安心下さい」
「何というお前の頼もしい言葉でしょう、それでは、もしや旦那がない後も、お前は、いつまでもこの家にいて、わたしたちのために力になってくれますね」
「それはもう、全く無給金でお家様のために働き、この御商売を、わたしの力で守り通して行って、ごらんに入れます」
「そのお前の言葉を聞いて、わたしは全く安心しました、きっと、その誓いを忘れないで、わたしの力になって下さいな」
「それはもう、わたくしは、最初からお内儀さんの味方でございます」
「嬉しい」
「では明日は、信州の方へ旦那様のおともをして商売に出かけて参りますから、そのおつもりで、御安心なすってお待ち下さいませ」
「ええええ、お前のために蔭膳を据《す》えて待っていますよ、早く帰ってちょうだい」
「わたくしも、それでなんだか、いっそう商売にも励《はげ》みがつき、自分の将来も安定したような気持が致します。では奥様、行って参ります」
「行っておいで、無事にね……」
こういったような話し合いで、若い番頭を主人のともをさせて、信州路への旅へ送り出しました。
信州へ出かけてからの商売も順調に行き、儲《もう》けも相当にあって、主従は早くも故郷の甲州へ向けて快く帰路についたのですが、その途中、ある山の中で、烈しい夕立に遭《あ》ったのが運の尽きでした。やっと道端の、ささやかな山小屋の中へ主従が逃げ込んで雨宿りをしたのです。まもなく霽《は》れることと思っていた雨も、意外に長降りをしている間に、旅の疲れで主人の方は旅装のまま、その山小屋の中で、つい、ぐっすりと寝込んでしまいました。商売の方がうまく行った安心と、旅の疲れとで、番頭がちょっと起しても起きられないほど、熟睡に落ちていたのです。
あんまりよく眠っているところを見ているうちに、若い番頭の胸の中にむらむらと、出立間際のお内儀さんの甘い言葉と、そのたっぷりした年増肌《としまはだ》とが現われて来ました。
「そうだ、この旦那さえなければ、あの旦那の身上《しんしょう》そっくりと、それから、わたしに心を持っていて下さる、あのたっぷりしたお内儀さんも、わたしのものになるにきまっている。うむ、そうだそうだ、自分も使われる人でなくなって、あの身上も、商売も、自由に切り廻す主人となれるのだ。そればかりではない、あのたっぷりしたお内儀さんを自分のものとして、家庭を楽しむことができるのだ。この旦那様さえなければ、この旦那様をさえないものにすれば……幸いここは甲斐と信濃の山路の奥、いま降り出した烈しい夕立、只さえ人通りのないところを、前後に全く見ている者はない、天道様さえこの豪雨で姿を隠している、ここに脇差がある、旅の用意の道中差、家を出る時、わたしは用心のために研《と》いで置いた、旦那はこの通りよく眠っている、これで一突き、それで万事がきまる、もし間違って、少しは騒がれてもこの場合、この雨――そうして、後ろは何千丈の谷底だ、死骸をあれへ突き落してしまえば、あとかたもなくなる、もし、見つけられても盗賊追剥の災難といえばそれでも済む――ああ、お内儀《かみ》さんの姿が目の前に浮んで来た、あのたっぷりしたお内儀さんが、にっこり笑って、おお、そうそう、お前の思い通り、一思いにそうなさい、そうそう臆病になっちゃいけない、強い心で……と言ってお内儀さんが手を添えて下さる、もう我慢ができない、決心した!」
こう思うと若い番頭は、急に物狂わしくなり、わななく手元で脇差を取ると早くも鞘《さや》を払い、いきなり主人の身辺に寄ると、後ろに悪魔がいて手伝いでもするかの如く、すごい勢いで、主人の咽喉《のど》をめがけて、その脇差を柄《つか》も通れと突き立てました。
六十七
いかに熟睡に落ちていたとはいえ、咽喉を突き刺されて眼をさまさぬ者はない。主人はやっと目を見開いて見るとこのていたらくです。
「あ、お前、何でわたしを殺すのだ」
「旦那様、済みませんが、わたしばかりをお恨み下さいますなよ、これはお内儀《かみ》さんが手助けをして、わたしにこうさせているのだと思って下さい」
「ナニ、家内がどうした?」
「旦那様を亡き者にすれば、旦那様の御身上も、商売も、それからあの美しいお内儀さんも、わたしのもの
前へ
次へ
全44ページ中35ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング