えすれば必ず穴にはなるのですけれども、ここの場合に於ては特にそれが違う。ここで穴を掘るのは、掘るその約束がある。つまりここで穴を掘ることは、人間の生命を埋むべきために掘るので、人間の生命を埋むるために大地を破壊することが公然と許されるのは、単にこういう地点だけに限ったものなのです。
 しかし、普通ならばこの際、お銀様も、わざわざ特にそういう人が不吉な作業をしている特種地の一角まで足を枉《ま》げて見ることはしなかったでしょうが、どうも、分けて行くこの細道が、その「穴掘り」作業の傍らを通らないことには、これを突切ることは不可能の道筋になっていましたから、そこで、やむなく右の「穴掘り」人足の鍬を持っている方へと近づいて、ついその眼と鼻の先まで来ると、先方が早くも鍬を休めて、そうして頬かむりをとって、恭《うやうや》しく、そちらから挨拶をしたものです――
「これは奥様――おいでなさいまし」
 はて、この男はよそ目もふらず鍬を使っているとばかり信じていたら、いつか早や、自分のここへ来たことを知っていた。いつのまに、どうして気がついたろうと、お銀様が不思議がって、その頬かむりを取った面《かお》を見ると、これはこの頃中、よく自分の方の建築工事に手伝いに来ている兵作という朴訥《ぼくとつ》な男でありました。
「兵作さんでしたね」
「はいはい」
「何ですか、おとむらいですか」
「はい、どうも、よんどころなく、この方を頼まれたものでございますから」
「村の方ですか」
「いいえ、はい、その……」
 兵作の返事が、しどろもどろになるのは、何か特別に意味がありそうです。
「どうしたのです」
 お銀様もしつこく[#「しつこく」に傍点]それをたずねてみる気になりました。
「どうも、誰も頼まれて上げるものがございませんから、つい……わっしにおっかぶせられてしまいました」
「それは、どうして」
 お銀様は、不承不承な兵作の態度を、合点《がてん》のゆかないものだと思いました。

         六十三

 なぜならば、誰も好んで墓場の「穴掘り」をやりたがるものはなかろうけれど、それを職業とする者のない田舎《いなか》では、当然村人が代り番にそのおつとめをすることになっている。当番に当れば免れ難いことになっているのを例とする。そこで、これは自治体としても、隣人同士としても、必然の義務になっているのだから、特に志願したり、強制したりする必要のない如く、当番がめぐり来《きた》れば、甘んじて奉仕しなければならないはずになっているのです。
 それをこの兵作は、自分に限って無理押しつけにでも押しつけられたもののように、不本意たっぷりの言い分ですから、お銀様は、そこにまた相当の事情がなければならないと思い、
「お前さん、亡くなった人を葬るために働くのは村の人のつとめの一つであり、またそのために精出して働くことが、亡くなった人の供養にもなるじゃありませんか、後生《ごしょう》の心持でおやりなさい」
 お銀様はこう言って、たしなめるような、励ますようなことを言いますと、兵作が、
「ところが奥様、今度の穴掘りに限って、村の人がみんないやが[#「いやが」に傍点]るんでございます。イヤが[#「イヤが」に傍点]るだけじゃございません、たれも穴を掘ってやり手がねえんでございます――といって、犬に食わせるわけにもいきませんから、兵作お前やってくれと言って、名主からわしに名指しで頼まれたんでございますがね、名主様のおっしゃることなら、兵作貴様これをやれ、と御命令でもやらなけりゃならねえですが、名主様から頼むように、わっしの名指しでおっしゃられてみると、どうにもこうにも、お引受けしねえわけにゃいきませんからなあ、で、まあ、私がこうやって一人で掘りはじめてみると、いいあんばいに一人、手助けが出来ましてね」
「そうなのですか、そんなにまで村の人から嫌われているお墓の主は、どういう人なのですか」
「つまり、人間の仲間|外《はず》れですねえ、悪いことをした酬《むく》いなんだから、どうにも、やむを得ねえでございます」
「何をそんなに悪いことをしたのです、たいていの罪があっても、死ねば帳消しになるじゃないの」
「左様でございます、死んでしまえば、てえげえの罪は帳消しになるんでございますが、今度のはただ眼をつむったということだけで帳消しになるには、あんまり重過ぎました」
「いったい、何の罪なのです」
「第一、姦通《まおとこ》でございます」
「姦通――」
「はい、それから、横領でございます」
「横領――」
「それからもう一つ、人殺し」
「まあ――」
「人殺しといっても、只の人殺しじゃございません」
「どういう人殺しですか」
「主人殺しでございます」
「え――」
「それから、夫殺しでございます」
「え――」
「そういう重い罪人でございますから、磔刑《はりつけ》にかけられましたが、その死骸を引取り手もございませんし、まして、葬ってやろうなんぞという人は一人もございませんので……」
「まあ、一人でそんなに重い罪を幾つも犯したのですか」
「いいえ、一人じゃございません、二人でやりました、姦通同士の男女《ふたり》がやりました。ごらんなさいまし、あの通り、もう一つの穴を、わっしの手助けに来た人がああして、せっせとあすこで掘っています」
「おおおお」
 その人は、もうかなり深く穴を掘り下げているものですから、ほとんど今まで、お銀様の感覚に触れないほどの物静かさでありましたが、そう言われて見ると、なるほど――全身は早や穴の中に隠れながら、もくもくと土だけを上へほうり上げている動作がよくわかります。
「わしは、その男の奴の方をこうして掘っていますだが、手助けの人は、ああして女の奴の方を掘っているんでございますが、男の方よりも、女の方のが、ずんと罪が深いのでございますよ」

         六十四

 それを聞くとお銀様が、その場を動けなくなりました。何ということなしに立ちつくしてしまいました。前路の目的も忘れてしまい、後顧の考えもなくなって、墓穴の中を見込んで、じっと突立ったままでした。
「穴掘り」の兵作は、これでお銀様への御挨拶は済んだという気持で、再び穴の中へ下りて頬かむりを仕直すと共に、カチカチと鍬の音を立てはじめました。
 お銀様は、じっと立って、その穴を見つめたままです。多少の時がうつります。日中ならば時のうつり方も緩慢に見えますけれども、黄昏時《たそがれどき》であっては、急速の移り方で、みるみる暗いもやがいっぱいに立てこめて、暮の領域はみるみる夜の色に征服されて行くのが烈しいのです。
 四方《あたり》が全く暮れてしまったと言ってもよいのですが、お銀様はまだその地点を動きません。穴掘りも、ようやく深く掘り下げて行くほどに、姿は陥没して行くけれども、鍬《くわ》の音だけは相変らずカチリカチリ、陰惨なうちにも迫らない動作を伝えていますが、この方はこれでよいとして、今し掘られつつある墓穴は、この一つだけではありませんでした。
 それよりもなおいっそう罪深き一方を葬るためと言われた他の一つも、同様以上に掘下げ工作が進捗《しんちょく》しているはずなのですが、この方は最初から、うんだともつぶれたともお銀様に向って挨拶は無く、お銀様もまた、最初から、とんとこの方はおかまいなしの体《てい》でしたが、ややあって、静かに歩みを移して、その閑却せられた一方の墓穴の方へと近づいて来ますと、さいぜんの穴の中から兵作の声で、
「おーい、若衆《わかいしゅ》さん、今お嬢様がお前の方へいらっしゃるから、よくお話をして上げてくんな」
 そうするとこちらの穴の中から、若いやさ男の声として、
「はーい、承知しました」
と返事をするのです。はて、おかしいな、こっちの穴の中の兵作は、穴の中を深く掘り下げていながら、自分がおもむろに歩みをうつして一方の穴へ近づいて行こうとするのを、どうして認め得たろう。そうして、やはり穴の中から一方の相手に向って、頼まれもしない先ぶれを試みている。お銀様は面妖《めんよう》な相手共だと心に感じながら、その一方の穴へ近づいて、ほとんど中を覗《のぞ》きこむばかりにして見ると、
「お嬢様でございますか」
 穴の下から、若いやさしい男の声なのです。こっちも、自分が来たのを、穴の中に見ず聞かずにいながら心得ているらしい。しかも、最初は兵作にしてからが「奥様」呼ばわりであったのが、ここへ来ると、もう「お嬢様」に変化してしまっている。しかし、もう、のっぴきならないからお銀様が、
「わたしです、そういうお前は誰ですか」
 こう言って返事をすると、穴から噴《ふ》き出しでもしたように、若いやさ形の男が現われて、いきなり前の兵作がしたように、頬かむりをとって、その面《かお》を突き出して莞爾《にっこり》と笑ったところを見ると、
「あら、お前は幸内《こうない》じゃないの」
 この時はお銀様が狼狽《ろうばい》して、驚愕の声を上げました。
 本来ならば、たとえ頬かむりを取ってみたところで、この宵闇では、知った面であろうとも、なかろうとも、急にそれとは気のつくはずはないのですが、打てば響くようにお銀様が、はっきりと音《ね》を上げました。
「お嬢様、お久しぶりでございました」
「まあ、幸内――」
「お嬢様、ほんとにお久しぶりでございましたねえ」
「お前、どうして、こんなところに、何をしているの」
「はい、さきほど、兵作さんからお聞きの通りでございまして、誰もかまい手がないものでございますから、つい、おてつだいをして上げる気になりました」
「お前のその痩腕《やせうで》で、そんなことにまで頼まれなければいいに」
「でもお嬢様――わたしのようなものが頼まれて上げなければ、誰も頼まれてやる人はありませんもの」
「でも、もういいから、おやめ――お前の代りに、誰か人を雇って来て上げるから」
「有難うございます、では、そういうことに願いまして、わたしは、これからお嬢様のおともを致しましょう」
「そうしておくれ」
「それでは、あの井戸の傍へ行って手を洗って参りますから」
「わたしが洗って上げるからおいで」
「有難うございます」
 そこで、お銀様は夢うつつのようになって、幸内を導いて行くと、墓地の中ほどに車井戸がある。
「わたしが水を汲んで上げるから、手をお出し」
「済みません――」
「なかなか深い井戸だね」
「なかなか深うございます、御用心なさいませ」
「さあ、もっと汲んで上げるから、面《かお》も、足も、洗ったらいいでしょう」
「まことに恐れ入ります」
「幸内」
「はい」
「こうして車井戸の水を汲み上げていると、あの昔の、躑躅《つつじ》ヶ崎《さき》の古屋敷の時のことを思い出さない?」
「思い出さないどころではございません、もうここへ参ります時から、頭の中がその時のことでいっぱいでございます」
「神尾主膳という奴は悪い奴ね」
「悪い、悪い、極悪人でございます」
「かわいそうね、お前は」
「お嬢様、もう、それをおっしゃって下さいますな、おっしゃらなくても、幸内の魂は、それでおびやかされ通しでございます」
「わたしが悪かったねえ、堪忍《かんにん》しておくれ」
「いいえ、お嬢様がお悪いのじゃございません、伯耆《ほうき》の安綱が悪かったのでございます」
「もう、それも言うまい。さあ、面と手をお洗いなら、これでお拭き」
「いいえ、手拭を持っておりますから」
 幸内は、最初頬かむりをしていたところの手拭を取り出して、手と、面と、足とをよく拭って、そこに置き並べた草履《ぞうり》をつっかけて、はしょっていた尻をおろしました。その途端にお銀様が井戸の流しの一方を見て、
「幸内、あれは何?」
「あれが、その、今お話の、二人の亡骸《なきがら》でございます」
「え」
 お銀様は目をみはりました。

         六十五

「あれが、さきほど兵作さんがお話しになりました、罪の男女の亡骸なんでございます」
 二人が目を合わせて注視したその井戸側の一方に、薦《こも》をかぶせて、犬か猫なんぞのように
前へ 次へ
全44ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング