大菩薩峠
新月の巻
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)奔馬《ほんば》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天馬|空《くう》を往く

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)鉄門※[#「金+俊のつくり」、306−14]
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         一

 とめどもなく走る馬のあとを追うて、宇治山田の米友は、野と、山と、村と、森と、田の中を、かなり向う見ずに走りました。
 しかし、相手は何をいうにも馬のことです。さしもの米友も、追いあぐねるのが当然でしたが、そうかといって、そのまま引返す米友ではありません。ことに右の放たれたる馬には、長浜で買入れた家財雑具はいうに足らないとしても、たったいま両替したばっかりの何千というお金が、確実に背負わせられている。金額の多少を論ずるわけではないが、ことにあのお嬢様が、この米友を見込んで用心棒を依頼してある、その責任感から言っても、追及するところまでは追及せずにはおられないでしょう。
 それはそうとして、米友もまた心得たところもある。奔馬《ほんば》というものは、前から捉えるに易《やす》くして、後ろから追うにはこの通り骨《ほね》だが、そうかといって馬というやつは、蝶々トンボの類《たぐい》と違って、どう間違っても空中へ向けて逸走することはない。天馬|空《くう》を往くという例外もあるにはあるが、通例としてはせいぜい地上を走るだけのものである。ああしてせいぜい地上を走っているそのうちには前途から誰か心得のある奴が出て来て取捕まえてくれるか、そうでなければ馬め自身が行詰るところまで行って、立往生するか、顛落《てんらく》するかよりほかはないものだ――ただ、往来|雑沓《ざっとう》の町中ででもあるというと、他の人畜に危害を与えるおそれもあるが、その点に於てこういう野中では安心なものだ――という腹が米友にあるから、焦《あせ》りつつも、いくらかの余裕をもって走ることができるのです。
 ところが、案に相違して、なかなか前途から、心得のありそうな奴が飛び出して取抑えてくれそうもなし、何かこの奔馬をして、行きつまらせるところの障碍物といったようなものも容易にないのであります。
 ついに一つのやや大きな川原中へ飛び出してしまいました。
「川へ来やがった」
 川原道を、ついにこの馬がガムシャラに走るのです――その川原の幾筋もの流れをむやみに乗切って、ずんずん飛んで行く馬は、まだ石田村の門前でひっぱたかれた逆上《のぼせ》が下りないで、お先まっくらがさせる業なのでしょう。
 やむことを得ず、米友もつづいて川原の中へ飛び下りました。
 逆上し切ってお先真暗なことに於て、奔《あば》れ馬《うま》ばかりを笑われませんでした。幾分の余裕を存して追いかけて来たつもりの米友自身すらも、この時分はかなり目先がもうげんじ[#「もうげんじ」に傍点]ていました。
「わーっ」
という喚声が、行手の川の向う岸から揚って、そうしてバラバラと礫《つぶて》の雨が降って来た時は、米友が、屹《きっ》となって向う岸を見込むと、その鼻先へ、今の今までまっしぐらという文字通りに走って来た放れ馬の奴が、不意に乗返して来たものですから、その当座の米友は土用波の返しを喰ったように驚いたが、その辺はまた心得たもので、
「よし来た!」
 何がよし来た! だかわからないけれども、今まで追いかけても追いかけても追いかけ足りなかった目的物が、今度は頼みもしないのに、自分で折返し畳み返して来たのですから、勿怪《もっけ》の幸いと言えば言うものの、この際、米友でなければ、たしかに引返し馬のために乗りつぶされてしまったことは疑うべくもありません。
 そこを、心得たりと身を沈めて、轡《くつわ》づらをしっかと取った米友、
「どう、どう、どう――しっかりしやがれやあい」
 米友ほどの人格者に握られた轡ですから、何のことはありませんでした、その途端に、馬の逆上がすっかり引下ったと見えて、大きな目もパッカリと見えるようになってみると、疲労そのものが一時に露出したらしく、馬相応の、嵐のような息をついて立ちすくみの体《てい》です――ここで米友は完全に奔馬を取捕まえることの目的を達しました。
 その目的だけは完全に達したけれども、前後左右の分別までがハッキリと手に取れているわけでもなく、頭にうつっているわけでもないのです。
 第一、今までガムシャラに走り続けていたこの馬のやつが、今ここへ来てどうして不意に折返して来たか、前途に心得ある人が出て来たわけでもなし、広い河原で、これぞといって障碍物もありはしないのに――こいつがここで不意にあと戻りをやり出した理由と原因とは、よくわかっていないのです。しかし、その理由と、原因をわざわざと探し求めるまでもなく、米友の身の周囲《まわり》に降りそそぐ石礫《いしつぶて》が、とりあえずこの不穏を報告する。

         二

 片手で馬の轡を取りながら、そうして、石の飛んで来る前岸を見込むと、さても夥《おびただ》しい人出。
 向う岸の土手の全部が、ほとんど人を以て埋っている光景を、米友がはじめて見ました。
「やあ、大変な人だな、蟻町《ありまち》のようだ」
 石の礫は、その夥しい人類の中から降って湧いて来ていることに相違ないが、この夥しい人類が、いつのまに、何のためにここへ現われたのだか、それはひとまず米友の思案に余りました。
 なるほど、荒れ馬の飛んで来るのは危ない。それ故に村の人が警戒を試むるのもよろしい。だが一頭の家畜のために、これだけの人数が繰出して来るとは――第一、馬がこの川原へ来るか来ないうちに、その危険をおもんぱかって、これだけの人数をかり集め得たとすれば、その人寄せは人間業ではない。
 しかしまた、他に目的あってここに待構えているんなら、何かその目的物がありそうなものだが、あいつらの面《つら》という面、目という目は、みんなこっちばっかりを見合せていやがる――だから、この一匹の馬のためにあの人数が繰出されたと見るよりほかはねえ、大仰《おおぎょう》なこった。
 おやおや、竹槍を持ってるぜ、竹槍を林の如くあの通り揃えて持っている。こいつは驚いたな、タカが一匹の放れ馬のために、危ねえ!
 クルクル眼を廻して、驚いてながめているうちにも、礫の雨が絶えず降って来て、同時に向う岸で口々に、おれたちに向って何かを罵《ののし》りかけているようだが、ガヤガヤして何のことだか聞きとれねえ。
 米友としては、奔馬追及の目的は完全に達せられたことだし、たとい、彼等が無理無体に礫の雨を降らしたところで、ここでなにも、好んで、宇治山田の網受けの芸当をしてお目にかける必要のないところですから、その飛んで来る石の雨は片時も早く避けた方が賢いと思慮したものですから、おもむろに馬の口をとってこちらの岸へ戻って来ると、「発止《はっし》!」これはまた、どうしたことでしょう、今度は戻って来る方の岸から、礫の雨が飛んで来ました。
「こいつは驚いた」
 米友は馬の口をひかえて、戻り来る岸の上を見ると、そこにも土手の上いっぱい、芋《いも》の子を盛ったような人出です。それが口々に罵っている、竹槍を持っている、米友と馬とをのぞんで石の雨を降らしかける、それは前岸の光景と全く同じことです。
 自分ながら落着いたつもりが、まだ血迷っていた。向きをかえたつもりだが、実はもう一ぺん廻り過ごして同じ方向に向いちまったか。あわて者が馬へ逆さに乗って尻尾《しっぽ》を見て、「おやこの馬には頭がねえ」と言ったが、乗り直して頭を見て、「尻尾もねえ」と言ったという笑い噺《ばなし》がある。そうでなければ大きな鏡仕掛で、あちらの幻像を、こちらへがんどう返しにうつし取ったものと見なければならないが、事実上、米友がどちらを向いて見ても、両岸が同じ光景だものですから、一時、どうしても、そこに馬の口を取りながら、立ちすくみの姿勢をとらざるを得ませんでした。
「わからねえ。わからねえ奴等だ」
 それは、馬が駈けて行く方が用心するのは当然であるとしても、その用心か惰力《だりょく》かなにかで文句を言い、石の一つも投げてみようという手ずさみは、まあわかっているが、もうこの通り、馬も取鎮めてしまって、そうして穏かに曳《ひ》いて帰ろうてえのに、その引返した方の奴が、悪口を言ってこっちへ石を投げかけるてえのは、わからねえ理窟じゃねえか。
 こういう人気の土地か知らねえが――こんなことは初めてだ、一匹の馬のために、まあ、見るがいい、後から後からとあの人出は、村方総出だ。
 おやおや、竹槍を持ったのが、バラバラこっちへやって来るぜ。
 また、向う岸からも竹槍を持った奴が、バラバラとこっちへやって来るぜ。いったいどうしようてえんだ、このおいらと、馬とを、両方から挟み討ちにして、あの竹槍で突っつき殺さずにゃ置かねえという了見《りょうけん》か――それはいよいよわからねえ。第一、この馬とおいらが、何を悪いことをしたのだえ。
 馬はやみくもに駈けたばっかりだ、おいらはそれを追っかけて来たばっかりなんだ、老人《としより》子供《こども》の一人にだって、怪我あさせたわけじゃあねえんだ。村を騒がせて済まなかったといえば済まなかったに違えねえんだから、その点はおいらだって詫《わ》びをしろと言えばしねえとは言わねえよ。なにもこっちも好きこのんで、馬を飛ばしたわけじゃねえんだ、馬が何かに驚いて飛び出したんだ、何に驚いたんだか、そんなことはまだ原因をたしかめる暇もなく、おいらはこうして追いかけて来たんだが――なんにしてもこっちに責任のある馬には馬なんだから、詫びろと言えば詫びらあな、あやまれと言えばあやまってやらあ――それをお前、何もこっちに一言も言わさねえで、両岸から挟みうちにして竹槍で突っつき殺そうたあ酷過《ひどす》ぎる!
 タカが一頭の馬の畜生のことじゃねえか――まるで、これじゃ戦《いくさ》だ――まさかこの馬が千両からの金を積んでいることを知っていて、それを取りてえから、ああして人数を集めたわけじゃあるめえ。そうだとすれば、村中が心を合せて切取り強盗を商売にしているようなわけのものだが、今時そういう商売の村というのはあるめえ。第一、この馬が千両からの銭金《ぜにかね》をつけているかいねえか、それまで見きわめちゃいめえがな。
 おやおや、来るよ来るよ、本当にやって来るぜ、あの通り若い奴が、竹槍を持って、こっちの岸からも御同様。さあ、もう仕方がねえ、こうなったからはこっちも了見をしなくちゃならねえ。
 米友は川原の真中でじだんだ[#「じだんだ」に傍点]を踏みました。同時に、両方の岸から、すさまじい鬨《とき》の声が起りました。
 竹槍をしごいた両岸の先陣五六名ずつが、その声に煽《あお》られて、奔馬《ほんば》のような勢いで、米友をめがけて――事実、米友としては、そう見るよりほかに見ようがない――両方から殺到し来《きた》るのです。
 こうなると米友は、もはや、じだんだ[#「じだんだ」に傍点]だけでは許されない。
 もういやです。米友としてもこんなところでまたしても武勇伝は現わしたくはないのですが、実際、身に降りかかる火の粉は払わなければならない。払って置いて相当の弁明が聞かれなければ、もうそれまで――そういう覚悟をきめることには未練のない男です。
 そこで、足場を見計らってお手のものの杖槍を二三度、素振《すぶ》りをしてみてからに、懐中へ手を入れると、久しく試みなかった菱《ひし》の実のような穂先を取り出して、しっかとその先を食いこませたものです。
 その時また、わあっ! と両岸で山の崩れるような鬨の声。

         三

 全く理不尽千万な、乱暴至極な、前後から一応の弁明もさせずに、竹槍の槍ぶすまを作って、米友一人と、駄馬一頭とをめがけて襲い来《きた》る暴挙。これは甲州街道の雲助でさえもあえてしなかったところの兇暴です。
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