しかし、事ここに至っては、いかにことを好まない米友であるにしてからが、勢い決死的に応戦の覚悟をきめること以外には、正当防衛の手段は無いのです。
 躍《おど》り立った米友は、その応戦の準備をしている途端に、なんだか急に、風向きが変って、予想の当てが外《はず》れたようにも受取れる――それは、自分と馬とにばっかり向って来るものと思いきっていた両岸の竹槍の槍ぶすまが、決して引返したというわけではないが、ある地点へ来ると、明らかにその槍先の当てが違っている、向きがそれているということを米友が認めました。
 当てが違っており、向きがそれているとしてからが、河原を真中にして、川原の両岸の土手から同じように進んで来ることは少しも変化はないのですが、その槍先が――つまり、米友と駄馬との焦点に向ってのみ集中し来《きた》るものとばっかり信じていたのが、途中にして、そうでなかったということが明らかにわかったのです。
 ある地点で、米友の的《まと》を外してしまったそれからは、中に何も置かず、川と川原だけで、そうして、両岸の竹槍と竹槍とが、対陣の形によって、おのおの両方から取詰めて行っていることを米友が明らかに認めました。
「なあーんだ」
と、それを知った瞬間に、米友が思わず力負けがして息を抜いたのは、べつだん事柄を軽んじたわけでもなければ、案外なばかばかしさから、噛《か》んで吐き出したというわけでもない。
 つまり、この火の粉は、自分の身にのみ降りかかるものと信じきって構えていたのが、実はわが身に降りかかるのではない、ということを知って、個人的に一安心したということに止まり、事件そのものの性質の危険性が、それで解消したというわけでは決してないことを認めると共に、一旦「なあーんだ」と言って、ばかばかしそうに力を抜いた米友が、再び別な用心を以て構えを立て直さないわけにはゆかなかったのです。それというのは、被《かぶ》る人が誰であろうとも、火の粉は火の粉です。火の粉が自分の身の上へ落ちて来るのじゃなかった、ということを認めて安心したのはいいが、それが人の身の上なら落ちかかって来てもいい、という理窟にはならないのです。
 充分の危険性あるものは、危険性あるものとしてなお存在し、それが自分の頭を外れたとは言いながら、他人の頭へなら落ちてもかまわない、という論法にはならないのであります。
 両岸の竹槍の槍ぶすまは、米友を焦点とすることから明らかにそれ出したけれども、その相手が消滅に帰《き》したというのではなく、手取早く言えば、今度は米友とその馬とを抜きにして、ひたひたと竹槍同士の対抗の形となって、ジリジリ押しをはじめている。
「なあーんだ、ここでも戦《いくさ》ごっこがはじまってやがる」
と米友が冷笑しました。道庵先生が関ヶ原で演じた模擬戦を、ここでも誰かが模倣している。
 面白くもねえ――と米友がさげすみました。本来、米友は、道庵がするような芝居気たっぷりがあまり好きではないのです。紙幟《かみのぼり》を押立て、模造大御所で納まり返って、あたら金銭と時間をつぶし、いい年をした奴が、戦争ごっこをしてみたところで、何が面白れえ――
 子供じゃあるめえし――と言って、米友がさげすむのも無理はないのです。道庵先生は、本来ああいうことが好きに出来てるんだ。つまり病なんだ。病では死ぬ者さえあるんだから、どうも、あの先生に限って、仕方がねえと諦《あきら》めてるんだが、病でもなんでもねえ、いい年をした奴等が、こう大勢寄り集まって、あっちでもこっちでも戦争ごっこをするたあ、呆《あき》れ返ったものじゃねえか。
 稼業《かぎょう》を休んでさ――年に一度か二度のお祭なら仕方がねえが、見たところ、これは決してお祭じゃねえんだ。
 ちぇッ――
 米友は、冷笑しながらそれを見ていると、事の体《てい》そのものは全く冗談《じょうだん》でもなければ、いたずらでもない、好きでやっているわけでも、病で狂っているわけでもない、まして、お祭騒ぎでなんぞあるべき余裕や賑《にぎ》わいはちっとも見えないのみならず、明らかに殺気そのものが紛々濛々《ふんぷんもうもう》と湧いているのです。

         四

 今や、最初に米友をめざして突き進んで来た両岸の十数名は、それは先陣でありました。
 先陣は勇者中の勇者のすることです。米友を的としての槍先はこのとき全くそれたが、槍と槍とが川原の真中で出逢ったところですなわち白兵戦が演ぜられるのかと思うとそうでなく、ある地点へ行くと、また急角度に槍先が変って、今度は両方の先陣とも、川をさしはさんで並行線になって、まっしぐらに駈け登って行くところを見ると、そこに水門口があります。
 一方は井堰《いぜき》。
 ちょうど、山崎の合戦で、羽柴軍と明智軍とが天王山を争うたように、この両箇の先陣が、その水門口をめがけて我先にと競《きそ》いかかる有様が、米友にハッキリと読めました。
「ははア――水門だな」
 今や明らかに両軍争奪の的が、米友及びその馬であることは消滅すると共に、新たなる目的物の存在がわかりました。
 目的はあの「水門口」の奪い合いだということは、馬鹿でない米友の頭にかっきりとわからないはずはありません。
「よくあることだ!」
 それは芝居気たっぷりな模擬戦でもなければ、見得《みえ》や慰みでやるお祭でもない。好きと病で、稼業を休んで、ああしているわけではない。全くの戦争だ、いや、戦争以上の生活の戦いだ。
 水争いである――よくあることだ、ひでり[#「ひでり」に傍点]の年には。
 水を取ると取らないとは、二つの村の収穫に関係するのである。一年の収穫は、百姓の生活の全部に匹敵するのである。彼等両岸の村々の者が、その収穫のために水を得ようとするのは、その生活のために生命《いのち》を守ろうとするのと同じことだ。
 必要だ――道庵流の模擬戦とは事が違って、現実に即した生死の争いだ、笑いごとや、冗談ごとじゃねえぞ!
 米友がそうさとってくると、おのずからまた力瘤《ちからこぶ》が満ちて、じだんだ[#「じだんだ」に傍点]が川原の砂地へ喰い入りました。ここで今、生活の白兵戦が始まるのだ、さあ後陣《ごじん》が続く続く。
 なだれを打って、後ろから人数が繰出して来たぞ。
 やあ、こいつは――川原いっぱいが死人《しびと》の山になるのだ、気の毒だなあ――
 どっちにも理窟はあるだろう、どっちも生死の境だからこうなったには違《ちげ》えねえが、何とか捌《さば》きはつかねえものか、両方ともに生きたいがために水が欲しいんだ、それだのに、両方は死人《しびと》の山を築いたんでは何にもならねえではないか、意地を張るというやつは、得てしてこんなもんだが、さあ、こいつはいけねえ。
 おいら一人を目の敵《かたき》にやって来たなら、まだ始末はいいが――この多勢で入乱れて混戦となったら手はつけられねえ。
 困ったなあ、弱ったなあ、ちぇっ!
 米友は歯噛みをして、じりじりして、眼をクリクリさせて、じだんだ[#「じだんだ」に傍点]を幾つも踏んでみましたけれど、足がいよいよじりじりと砂地の中に喰い入るばかりで、全く手のつけようも、足ののばしようもないことを覚《さと》らずにはおられません。
 今や双方の先陣が、水門口の天王山を双方から取詰めて、竹槍の先が火花を散らして、両岸に血の雨の洪水を切って落そうとする――瞬間に、いつ、どこから、いつのまに身を現わしたのか、その天王山の中央の水門の上へ、すっくと身を現わした一つの人影を米友が認めました。
 それは、米友が認めたばかりではありません、万人ひとしく注意の焦点でありましたから、誰ひとりとして、その一個の人影を認めないものはなかったろうと思われます。それのみならず、認めるには、ちょうど都合のいいように、地の利もよかったし、第一、その人影そのものの風采《ふうさい》が、かっきり、あたり近所を劃しておりました。
 というのは、その一つの物形だけが竹槍蓆旗《ちくそうせっき》の両岸の人民たちと違って、鮮かにさむらいのいでたちの、しかも寛濶な着流しで、二本の大小を落し差しにしている風采そのものが示します。
 不意に現われたこの一個の人影が、さしもにいきり立った竹槍組の先陣の気勢をも大いに緩和したのか、妨害したのか、とにかく、決死的に勢い込んだ先陣の槍先が鈍《にぶ》ったことは確かであります。
 米友も、眼を拭ってそれをながめました。米友の立っている地点からは、かなり離れていることですから、さながら人形芝居を遠見している如く、影絵の拡大を日中見せられている如く見えるのですが、気のせいか米友の眼で――遠目にどうもそこへ現われたさむらいが、見たことのある――と言っても古い昔のことではない、最近に、そうそう、長浜の湖辺で、釣を垂れていたあの浪人者――あれに似ているように思われてなりません。どうも物言い、恰好《かっこう》、それだ。それだとすれば、いつ、どうしてあすこへ駈けつけて来たのだろう、こっちの岸から駈けて行ったとも見えないし、あっちの岸から走りついたとも気がつかなかったが――さては隠れていたな、あの水門の蔭あたりに、ぴったりと身をひそめていたのだな。うむ、そうだ、こういうことが起るだろうとかねて心配していたものだから、その時の用心にと、あの水門の蔭あたりに隠れていて、それから双方の仲裁にかかろうという段取りだ。なるほど、そうありそうなこった。
 この仲裁ぶりが見ものだなあ――米友はじりじりしながら、固唾《かたず》を呑みました。

         五

 しかし、仲裁ぶりを見るといったところで、ここは遥かに隔たっているから、言語はむろん聞えず、ただ遠距離から活動写真を見ていると同様で、彼等の動作だけがわかるのみであります。しかし、動作だけにしてからが、銀幕の上に持廻りのすれからし物を見せられると違って、白日の下《もと》に、カッキリと実演によって見せられるのだから、要領を得ることは手にとると同様です。
 双方から勢い込んだ竹槍の先陣が、この水門口のところで浪人姿のさむらいに支えられました。浪人姿のさむらいは、手ぶり、身まねを以て彼等に懇々と理解を説いているらしい、その動作を見ると、言葉はむろん聞えないけれど、かなり歯ぎれのよい弁舌家であるらしい。
 或いは叱り、或いは教え、或いはなだめ、或いは口説《くど》いている様子は、活動俳優そのものと違った真剣味がありますから、自然、米友も身を入れて見ていることができるのであります。まして当面、その理解を聞き、身ぶりを受けている人数にとっては、なお一層身に沁《し》みる程度が深いと見えて、さしも意気ごんだ竹槍の先陣たちも、おのずから、いくらかずつ意気込みが緩和されて行く気分も、米友の方へ打って響くようにうつります。
 そのうちに、双方から続々と後陣が詰めかけて来る。先陣の気勢によって、それもみな幾分か殺気が緩和されて来《きた》りつつあるもののようです。
 で、竹槍、鍬《くわ》、鋤《すき》の類をはじめとしての得物《えもの》は、それぞれ柳の木に立てかけられたり、土手の上に転がされたりして、双方が素手《すで》で無事に入り交って、といっても中心に絶えずその理解を説いている浪人姿のさむらいを置いて、おのおのの主張を口舌で取交しはじめていることも、ハッキリわかりました。
 つまり、要領はこうなんです、右の浪人姿のさむらいが現われて、
「君たち、そう一途《いちず》に得物を持って殺気をたててはいかんじゃないか、水が切れたからと言って、血の雨を降らすなんぞは愚かな儀じゃ。じゃによって、一応双方から委員を選んで、評議をこらしてみちゃどうだね。本来、責任は天にあるのじゃ、天が雨を降らせてくれないのだから、恨みがあれば天へ持って行くべき筋じゃ。喧嘩をするとすれば、天を相手に喧嘩をしなければならないものを、それを人間同士がなすり合って、血の雨を降らそうということはいかん。そこでじゃ、この水門の水を、穏かに、相談ずくで、適度に分配することにしちゃどうだ――たとえば、朝の何時までは甲
前へ 次へ
全44ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング