という阿魔はどこへうせた!」
「や、一足遅かった! あれだ、あの遊山舟で乗り出したあれがお角に違えねえ!」
「もう一足早かりせば」
「あんたはん、どないに致しやしょう、相手はお尻《いど》に帆かけて逃げやんした、どないに致しやんしょう、ちゃあ」
 彼等はとりあえず、岸に立って、遥かに乗り出して行くお角の遊山舟を見渡しながら、土佐の卜伝《ぼくでん》に置きざりを食った剣術高慢のさむらいのように、地団駄を踏んで歯噛みをする事の体《てい》が尋常ではありません。
 しかし、どうやら見たような面《かお》ぶれでもある。
 あ、なるほど、
[#ここから2字下げ]
古川の英次
下駄っかけの時次郎
下《しも》っ沢《さわ》の勘公
雪の下の粂公《くめこう》
里芋のトン勝
さっさもさの房公
相撲取、松の風
よたとん(四谷っとんびの略称)
安直兄い
木口勘兵衛尉源丁馬
[#ここで字下げ終わり]
 どうしてこの連中が今ここへ、こんなにまでして血眼になって駈けつけたか、その仔細を聞いてみると――
 この連中は、恨み重なる垢道庵を胆吹山へ追い込んで、このたびこそは有無の勝負を決せんと、春照高番まで取りつめてみたが、味方に多少|手創《てきず》を負うたものがありとはいえ、もうこうなってみればこっちのもの――胆吹へ追い込んで、遠巻きにじりじりと攻め立てれば、道庵も早や袋の鼠――石田、小西の運命明日に窮《きわま》ったりと、一同心おごりしたために、その夜、春照高番の宿で、前祝いのバクチをやったのが運の尽きでありました。
 そこへ、不意にお手入れがあって、右の面々が一網打尽《いちもうだじん》に引上げられ、厳重なお取調べを受けた上に、人相書まで取られたり、爪印を強《し》いられたり、お陣屋へお留置《とめおき》を食った上に、ようやくのことで釈放されたという次第で、これがために、道庵征伐の戦略も一時めちゃめちゃになってしまいました。
 しかし、この不意のお手入れには――どうも指した奴がある。密告をした奴がある。味方に裏切りをした奴か、そうでなければ、道庵方の伏勢のために乗ぜられたのではないか、という疑心が増長してみると、
「そうだ、道庵の相棒にお角という食えない奴がいる、あいつが大津の方へ向けて先発していた! それを忘れていたのが我等の抜かり――道庵の尻抜けは怖るるに足らず、お角の腕は凄《すご》い。こりゃてっきりお角が指したのだ、お角の方寸で我々をその筋へ密告したのに違えあるめえ――そうだ、道庵は袋の鼠、お角こそ大伴《おおとも》の黒主《くろぬし》、あいつが万事糸をひいている」
 そこで、この一まきは、釈放されるや否や、血眼で大津方面へ飛んで返り、お角の根拠をついたが、そのお角は一足先に遊山舟であの通り、湖面遥かに浮んでしまった。そこでこちらは岸に立って足ずり――という段取りであったことがあとでわかりました。
 しかし、この連中、一度は足ずりをして残念がったけれども、やがて談合が調《ととの》うと、二はいの船を買い切って船装いをすると共に、これに分乗して、あわただしく湖中へ向けて乗り出したのは、果してお角の船を追いかけるつもりか、或いはなお身辺の危険を慮《おもんぱか》って避難するつもりか、その挙動だけを以てしては、真意のほどはわかりませんでした。

         五十四

 胆吹の上平館《かみひらやかた》の出丸では、道庵先生と、お雪ちゃんとが、たちまち打ちとけてしまいました。
 道庵は、お雪ちゃんを前にして炉辺に坐り込むと、忽《たちま》ち左の手を口のあたりへ持って行って、妙な手つきをして、とりあえず一杯やりたいのだが代物《しろもの》はないか、という意志表示をしました。
 自分の身体《からだ》から、この方の気が切れると、陸《おか》へ上ってお皿の水をこぼした河童同様になって、自滅するほかはないという説明をも附け加えると、お雪ちゃんが心得て、本館の方へ行って、不破の関守氏から一樽を頒《わか》ちもらって来て道庵に授けたものですから、そのよろこびといっては容易のものではありません。
 すぐさまそれを燗《かん》にしてもらってちびりちびり試むると、その酒の芳醇《ほうじゅん》なこと、こんなところへ来て、こんないい酒を恵まれようとは全く予想外のことでしたから、道庵の魂が頂天に飛びました。
 それから、お雪ちゃんという子のこの好意が、ばかに身にしみて嬉しくなると共に、話をすると、頭がよくて理解があり、それに知識慾もあって、相当の受けこたえができる。それに人のもてなしに愛想があって、親切を極めるものですから、道庵が重ねて嬉しくなって、この娘さんのためには、また自分の好意を傾けて、相手になってやらなければならないと考えつつ、しきりに盃と会話とを進めています。
 お雪ちゃんの方もまた、この先生が飄逸《ひょういつ》で、ざっかけで、直《ちょく》で、気が置けない人柄である上に、お医者の方にかけては、江戸でも鳴らしている大家であるというような信頼もあるし、当然その脱線も脱線とは受けとれず、その道の当代有数の大家が、自分のようなものにも調子を合わせて相手になってくれることだと有難く思って、二人は炉辺で、それからそれと話がはずみました。
 そのうちに、どうした話の風向きか、道庵の話がお雪ちゃんを前にして、性の問題に触れ出してきました。
「お雪ちゃん、お前さんも将来はその責任があるのだから、ようく聞いて置きなさいよ、わしはエロで話すわけじゃないんだ、お前さんの親切心に酬《むく》ゆるために、女にとってこれより上の大事はない、つまり男で言えば、戦場に臨むと同様なのが、それお産のことだあね。こればっかりは男にはできねえ。わしゃいったい、どうも身贔屓《みびいき》をするわけではないが、女の方が男に比べて脳味噌が少し足りねえと思うね。そりゃ女だって、多数のうちには男に勝《まさ》る豪傑――女の豪傑というも変なものだが、男のやくざ野郎よりは数十段すぐれた女もあるにはある、男だって女の腐ったよりも悪い奴がウンといるにはいる、が、平均して見てだね、女の方が少し脳味噌が劣る――と言っちゃ怒られるかね。だから女というやつは、男にたよらなければ何一つできない、女のするほどのことは男がみんなするが、男のするほどのことを女がやりきれるというわけにはいかねえ。ただ一つ、女にできて男にどうしてもできねえことが、しゃっちょこ立ちをしても男がかなわねえことが、たった一つだけある、それは何かと言えばお産をすることだ。こればっかりは女の専売で、男がたとい逆立ちをしてもできねえ。尤《もっと》も孝経には、父ヤ我ヲ産ミ、母ヤ我ヲ育ツ、とあるから、孔子の時分には男が子を産んだのかも知れねえが、今日、男が子を産んだという例は無い。だから子を産むことだけは女の専売で、この点では男が絶対的に女の前に頭が上らねえんだが、女さん、増長していい気になっちゃいけませんよ、その子を産むというたった一つの女の絶対的専売でさえ、男の助太刀《すけだち》が無けりゃできねえんだから……」
「ホ、ホ、ホ、ホ」
と、お雪ちゃんが笑いこけるのを、道庵はいよいよすまし込んで、
「まあ、それは、どっちでもいいが、お産だけは今いう通り、男子の戦陣に臨むのと同様に、女子生涯の一大事なんだ。お雪ちゃん、お前なんぞは、まだその戦陣に臨んだことはあるめえが――嫁入前にそういうことはねえのがあたりまえなんだが、今時の小娘と小袋とは油断がならねえから、或いはお雪ちゃんに於ても、もう或いは時機に於て、すでに処女を離れているかどうか、そのことはわからねえんだが……」
「先生、いやでございます、そんなことをおっしゃっては」
「は、は、は、どうも淑女の前でそういうことを言うのは、本来ならば礼儀に欠けているんだが、こっちは医者ですからな、職業的、科学的に言うんだから、遠慮なくお聞きなさいよ、処女が母となる将来のためを思って言って聞かせてあげるんだから、はにかまずに聞いてお置きなさいよ――」
 道庵は、冷静に釈明をして置いて、それからまた盃《さかずき》を挙げ、
「お産を安くしようとするには、まずともかく、身体を冷えないようにすることだね。身体の冷える、冷えないにも、それぞれ体質があり、拠《よ》るところもあるのだが、人間の身体はどうしても冷えてはいけねえ、清盛様みたいに火水の病も困るが、人間が冷えてつめたくなると、やがてお陀仏になる。そこで、身体の冷えを救って、よき子を産む方法がある、膝のうしろのところへ、三つお灸《きゅう》を据えるんだね――その灸点の場所は、ちょっと秘伝なんだ、お望みなら据えてあげましょう。幸いここは胆吹山で、艾《もぐさ》に事は欠かない、お望みなら、それをひとつお雪ちゃん、あなたにこの場で据えて進ぜましょう――利《き》きますぜ、道庵が師匠からの直伝《じきでん》の秘法なんですから、効き目はてきめんでげす。現に、これまでどうしても子供を欲しがって与えられなかった母体に、道庵が秘法を授けてから、ひょいひょいと三人も五人も産み出しました、女ほど貴きものは世にもなし、釈迦も、達磨も、ひょいひょいと産むと言いましてな」
「ホ、ホ、ホ、ホ」
 お雪ちゃんがまた笑うと、道庵はいっそう真顔になって、
「その灸点は、もと水戸から出たんだ、水戸の光圀公《みつくにこう》が発明だなんていうが、そのことはどうだか、とにかく、てきめん利くよ、現金効能が顕《あら》われる。そいつをひとつ今日、道庵がお雪ちゃんのために施して進ぜましょう、そうして、釈迦でも、孔子でも、どしどし産み並べてもらいてえ」
「いけません、そういうことをおっしゃるのは、処女の神聖を侮辱するものでございますわ」
「違《ちげ》えねえ、こいつは一本参った」
 道庵は仰山に右の掌で額を叩いてから、
「将来のために言って聞かせてあげることが、現在に混線しちゃったんだ、これというもみんなためを思って言うことだから、悪くとらずに聞いておくんなさいよ、エロで言うわけじゃねえんだから……」
と、道庵はしきりに言いわけをしてから、
「それから、良い子を上手に産もうとするには、右の灸点を受けてから、身体の持扱いだね、身体をゆったりとして置くことだね、よく坊さんがそれ、禅というのをするだろう、あれだね、あの形で正しくゆるやかに――といっても結跏《けっか》といって、足をあんなに組むには及ばねえ。そうしてるんだね……」
「先生、わたくしは、子供を産むということに就いて、日頃一つ考えさせられていることがあるのですけれど、きいて下さいますか」
 お雪ちゃん、なぜかこんどは自分から積極的に突込んで、道庵先生に向って、日頃の疑問を晴らそうと試むる態度に出たものですから、道庵も乗り気になって、
「うむ、何でも質問してごらん、聞くは末代の恥、聞かぬは一時《いっとき》の恥ということもある、何でも、先輩に向って遠慮なく物を質問してみるようでないと、学問は進歩しねえ」
 そこで、まじめに質問をしかけながら、お雪ちゃんが少しおかしくなりました。というのは、いま道庵が、聞くは末代の恥、聞かぬは一時の恥と言ったのは、たしかに比較が顛倒《てんとう》している。正しくは、聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥――と言わねばならないところを、顛倒してしまっているのだから、せっかくの格言俚諺《かくげんりげん》が全然意味を逆転せしめてしまっている。しかも、道庵は下流文士がわざとトンチンカンを言って擽《くすぐ》るのと違って、自分がそれに気がつかないで、頭は正当の意味で、口だけが逆転しているのだから罪はない――まだ初対面早々のことではあり、ことに相手が、自分で気がつかないでまじめくさっているものですから、吹き出してしまうのも失礼の至りと、お雪ちゃんはやっと我慢をして我にかえり、
「世間で子供が生れますと、ただ目出度い目出度いとお祝いをいたしますけれども、本当にそれが母となる人のために、また子供として生れた者のために、目出度いことなんでしょうか。親は子を産むために疲れ、子は産み落されて、世の中に翻弄《ほんろう》されながら生きて行かなけ
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