生島へ参詣を致したいと思って参ったものなんでございますが……」
「なに、何だ、りんこ[#「りんこ」に傍点]の渡し、その渡しからお前は竹生島へ渡りてえんだって、待ちな、待ちな」
と言って、眼をこすって右の動物がすっくと岩角の間を分けて、荒草の中から立現われたところを見ると、なあんのことだ、これぞ、あんまり知らない面でもない宇治山田の米友でありました。
だが、弁信はまだ米友を知らない、米友もまだ正当には弁信に引合わされていないと見てよろしい。そこで、暫くは生面未熟の間の人と人として、荒草を間にして当面に相立ったのです。
「おいらも、本当のところは、この土地の人間じゃあねえんだから、よく地の理を知らねえんだ、だが、この土地は、江州の長浜といって湊《みなと》になってるんだから、船つきも、船の出どころも、いくらもあるよ、どこがりんこ[#「りんこ」に傍点]の渡してえんだか、おいらは知らねえが、竹生島というのは眼と鼻の先なんだ、頼んでみたらいくらも船は出るだろう」
「そうおっしゃるあなたは、もしや米友さんではございませんか」
「え、え、おいらを米友と知ってるお前は誰だい」
「わたしは弁信でございます」
「弁信?」
「はい、米友さん、あなたのお名前は、お銀様からも、お雪ちゃんからも、絶えず聞いておりました、わたくしは、やはりあの胆吹山の京北御殿に厄介になっている弁信でございますよ」
「ははあ、そうか、お前があの弁信さんか」
と、米友も合点《がてん》がゆきました。
そうして、ここで心置きなく、荒草をずしずしと踏みしだいて、弁信をまともに見るべく進んで行きましたが、むしろ、こんなところに、こうして米友が休息をしていたという現象によって見ると、今暁、ああして道庵先生をお雪ちゃんの寝室に抛《ほう》り込んで置いて、闇の中へ身を陥没してからの後の動静というものが、朧《おぼろ》げながら連絡をとれる。すなわちあれからともかくも、この長浜の地まで一気に山腹を走り下ったものと見なければなりますまい。
そうして何をか目ざし、何をか当りをつけようとしたが、その効果のほどはわからないが、ともかくも、この安全地帯まで来て、しばしの快眠を貪り、やがてまた、相当の進出を試みようという休養時代であったことがよくわかります。その休養期間を思いもかけず、弁信というものが来て驚かしてしまったという径路もよくわかります。
かくて、米友と弁信とは、近江の湖畔のこの地点で当面相対して、水入らずの会話をしなければならないように引合わされました。
二人はついに、この巌蔭の日向《ひなた》のよい地点を選んで、そこを会話の道場としましたが、この巨大なる切石であって、同時に巌石と巌石の形を成している石質の由来を弁信が勘で言い当てました。多分これは、太閤秀吉が長浜の城主であった時代の遺物、その秀吉の城郭の一部をなした名残《なご》りの廃墟の一つでありましょう。そうでなければ、この辺に斯様《かよう》な大岩石があるはずはないというようなことを、弁信がうわごとのように言いました。
五十二
女興行師のお角親方は、一つには胆吹山入りをした道庵先生を待合わせる間、一つには三井寺参詣と八景遊覧のために、大津へ先着をして参りました。
そうして、三井寺へも参詣をすませ、法界坊の鏡供養も見て、今日は舟を一ぱい買いきって、これから瀬田、石山方面の名所めぐりをしようという出鼻であります。
お角さんのことだから、日頃あんまりケチケチするのは嫌いなんだが、ことに旅へ出てこういう素晴しい名所に出くわした上に、いよいよ京大阪も目と鼻の間ということになってみると、心がなんとなくはずんで、いでたちがけばけばしくなるのは、勢いやむを得ないことであります。
見れば、お角さんの買い切った一ぱいの舟には幔幕《まんまく》が張り立てられ、毛氈《もうせん》がしかれて、そこへゾロゾロと芸子、舞子、たいこ末社様なものが繰込んで来るのです。
そうして、舟宿がペコペコと頭を下げる中を、おともの若い者二人を具して、お角さんが大様《おおよう》に乗込んで来ました。
そうすると、げい子や舞子、たいこ末社連がよく聞きとれない言葉で、ペチャクチャとお追従《ついしょう》を言って取巻いて、下へも置かずお角さんを舟の正座に安置する。
左右へ、若い衆や庄公が着いて、舞子や、たいこ末社が居流れる。
そしてまた舟の中へ、酒よ、肴《さかな》よ、会席よ、といったものが持運ばれて、出舟までの準備さえ相当の手間が取れるのです。
お角さんの気象がおのずからはずんで、京大阪への手前、多少とも江戸ッ子は江戸ッ子らしく振舞ってみせなければ、後の外聞にもなるといったような、お角さん相当の負けない気で、この際、自分が江戸ッ子を代表してでもいるような気位になるのも是非がないでしょう。そこでこの八景めぐりが自然にお大尽風を吹かせるような景気になって、そこは、相当の要所要所へ金をきれいに使うことは心得ている。舞子や、たいこ末社まで取巻に連れ込んだのは、これは何か偶然の達引《たっぴき》か、そうでなければ、転んでも只は起きない例の筆法で、この一座のげい子、舞子、たいこ末社連のうちに、将来利用のききそうな玉があると見込んでいることかも知れません。
とにかくこうしてお角さんの八景巡りは、仰山ないでたちでありました。道を通る人も、乗る舟を見かけて集まるほどの人も、みんなこの華々《はなばな》しい景気に打たれて、眼を奪われないものは無いのです。そうしてどこのお大尽の物見遊山かと、その主に眼をつけると、案外にも関東風の女親分といったような伝法が、しきりに舟の中で指図をしたり、叱り飛ばしたり、おだてたりしているものですから、舞子、芸子、たいこ末社の華々しさよりは、この女親分の威勢のほどに気を取られ、目を奪われないものはありません。
こうして、お角さんの八景遊山舟が出立の用意に忙がしがり、岸に立つ者、もやっている舟の注視の的になって、その風流豪奢のほどを羨《うらや》んだり、羨ましがられたりしているところへ、群衆を押分けて、のそりのそりとお角さんの舟へ近づいた異形《いぎょう》のものが一つありました。
頭はがっそうで、ぼうぼうとしている。身にはやれ衣[#「やれ衣」に傍点]をまとい、背中に紙幟《かみのぼり》を一本さし、小さな形の釣鐘を一つ左手に持って、撞木《しゅもく》でそれを叩きながら、お角さんの舟をめがけて何かしきりに唸《うな》り出しました。
その姿を見ると、芝居でする法界坊の姿そのままですから、あほだら経でも唸り出したのかと見ればそうでもなく、謡《うたい》の調子――
「秋も半ばの遊山舟、八景巡りもうらやまし、これはこのあたりに住む法界坊というやくざ者にて候、さざなみや志賀の浦曲《うらわ》の、花も、もみじも、月も、雪も、隅々まで心得て候、あわれ一杯の般若湯《はんにゃとう》と、五十文がほどの鳥目《ちょうもく》をめぐみ賜《たま》わり候わば、名所名蹟、故事因縁の来歴まで、くわしく案内《あない》を致そうずるにて候、あわれ、一杯の般若湯と、五十文の鳥目とをたびて給《た》べ候え、なあむ十方到来の旦那様方……」
こんなことを謡の文句で呼びかけるものだから、どうしても舟の連中の耳障《みみざわ》りにならないわけにはゆきません。しかし、誰も進んで、出ないとも出るとも言わないで、舟の装いに忙がしがっているものですから、右のまがいものの法界坊はしつっこく、
「あらおもしろの八景や、まず三井寺の鐘の声、石山寺の秋の月、瀬田唐崎の夕景色、さては花よりおぼろなる、唐崎浜の松をはじめ、凡《およ》そ八景の名所名所の隅々まで、案内はもとより故事来歴までも、一切心得て候、あわれ福徳円満諸願成就の旦那衆、一杯の般若湯と、五十文の鳥目をたびて給べ候え、御案内を致そうずるにて候」
それを聞いて、たまり兼ねた若い者の庄公が、
「何だい、何だい、何をおめえさん、そこでブツブツ言ってるんだい」
「あわれ一杯の般若湯と、五十文が鳥目とをたびて給べ候え、八景の名所名所、洩《も》れなく御案内を致そうずるにて候」
「何か七《しち》むずかしいことを言っているが、何かい、酒を一杯飲ませてくれて、五十貰えば八景の名所案内をしてくれるとでもいうのかい」
「さん候《ぞうろう》、何《いず》れもの旦那衆にさように勧進《かんじん》を申し上げて御用をつとめまいらせ候、今法界坊とは、やつがれのことに御座あり候」
「うるせえな、親方――」
と、お角の方を庄公が向き直って、
「親方、お聞きなさる通り、へんてこな奴がやって来ました、あの法界坊の出来損ねえみたいな奴が、一杯お酒を御馳走になって、五十貰えば名所案内をしてくれるって言いますが、追払っちまいましょうか」
お角がそれを聞いて、
「まあ、いいから呼んでおやりよ、わたしはあんまり故事来歴なんぞ知らないから、聞かしてもらえば学問になるよ、こっちへ呼んでおあげ」
と言いましたから、庄公はまた今法界坊の方へ向き直って、
「おい、法界坊さん、じゃあ案内をおたのみ申すことになるんだそうだから、こっちへお入り」
「これは、忝《かたじ》けのう存ずるにて候」
と言って、のこのこと今法界坊は舟の中へ入って来て、一隅にちょこなんと座を構えました。
そうしているうちに、舟はようやく纜《ともづな》を解いて乗り出す。天気も好いし、景気もいいものですから、お角さんもいい気になって今法界坊を手許《てもと》に差招き、
「和尚さん、さあ、一つあがり。わたしゃ、こちらの方へは今日はじめてで、いっこう何も知りませんから、一杯やりながらいろいろこの土地の世間話をして下さいな。名所案内ばかりじゃありません、何でもいいから、この土地にありきたりの話をして聞かせて下さいな。さあ、遠慮なくおやり。舞子さん、あの和尚さんにお酌《しゃく》をしてあげてちょうだい」
と言って、今法界坊にお角はまず酒と肴《さかな》を振舞うと、法界坊、いたく恐悦して盃を押戴き、一口しめして、肴をつまみ、
「ああら珍しや酒は伊丹《いたみ》の上酒、肴は鮒《ふな》のあま煮、こなたなるはぎぎ[#「ぎぎ」に傍点]の味噌汁、こなたなるは瀬田のしじみ汁、まった、これなるは源五郎鮒のこつきなます、あれなるはひがいもろこ[#「ひがいもろこ」に傍点]の素焼の二杯酢、これなるは小香魚《こあゆ》のせごし、香魚の飴《あめ》だき、いさざ[#「いさざ」に傍点]の豆煮と見たはひがめか、かく取揃えし山海の珍味、百味の飲食《おんじき》、これをたらふく鼻の下、くうでんの建立《こんりゅう》に納め奉れば、やがて渋いところで政所《まんどころ》のお茶を一服いただき、お茶うけには甘いところで磨針峠《すりはりとうげ》のあん餅、多賀の糸切餅、草津の姥《うば》ヶ餅《もち》、これらをばお茶うけとしてよばれ候上は右と左の分け使い、もし食べ過ぎて腹痛みなど仕らば、鳥井本の神教丸……」
くだらないことをのべつに喋《しゃべ》り立てながら、酒を飲み、肴を数えたてる。お角さんもそれを興あることに思い、それから、
「さあ、舞子さんたち、陽気に一つ踊って下さい」
芸子、舞子が、やがて三味線、太鼓にとりかかると、今法界坊が、
「さらば愚僧が一差《ひとさし》舞うてごらんに供えようずるにて候」
いちいち謡曲まがいのせりふで、がっそう頭に鉢巻をすると、いまにも浮かれて踊り足を踏み出そうとする気構え、こいつも相当に茶人だと一座も興に入りました。
そうして舟は湖面を辷《すべ》り出して、瀬田、石山の方へと進み行くのであります。
五十三
こうしてお角の遊山舟が、さんざめかして湖上遥かに乗り出した時分に、あわただしくその舟着へ押しかけた一団の者がありました。
その連中を見ると、野侍《のざむらい》のようなものもあり、安直な長脇差もあれば、三下のぶしょく[#「ぶしょく」に傍点]渡世もあり――相撲上《すもうあが》りもあり、三ぴんもあり、いずれも血眼《ちまなこ》になってここへなだれ込んで、そうして、
「どうした、お角
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