《ちくぶじま》へ御参詣だなんて言いましてね、長浜から船に乗るって言ってましたが、なにしろ時機が悪いから、もう少し動静を見定めてからにしちゃあどうだね、と忠告してみたが聞きませんね、なあーに、わたくしなんぞは不具者の一徳と致しまして、上役人様も、お百姓方も、どなた様もお目こぼしをして下さいますから御方便なものでございます、竹生島の弁財天へはかねての誓願でございまして、数えてみまするとちょうど月まわりもよろしうございますから、これから出かけてまいります――と例の調子で、留めるのも聞かずに出て行きましたぜ。なるほど、あれで琵琶を本業としていますと、弁財天は親神様のようなものですから、あの坊さんとして行きたいのは当然でしょう。弱々しいくせに剛情なものです。怪我がなければいいと思っておりますがね」
関守氏が誰に向ってか、こんなことを言うのを、庭と障子を隔《へだ》ててお雪ちゃんが手に取るように聞きました。
最初は自分に向って呼びかけたのかと思いましたが、そうでもないようですから、わざと返答を控えているうちに、これだけのことを言い捨ててしまいますと、関守氏はそのまま、すたすたと本館《ほんやかた》の方へ行ってしまったようです。
では弁信さん、かねて竹生島へ行きたい行きたいと言っていたが、我慢しきれずに今朝でかけてしまったと見える。湖水巡りをする時は一緒にしましょう、と約束をして置きながら、ひとり出しぬいてしまうのはひどい。それは、弁信さんはただの遊覧と違って、竹生島の弁天様へ琵琶の方で特別の心願があるのですから、一緒にはならないかもしれないが、行くなら行くように、わたくしに一応挨拶をして下さってもよかりそうなものを、ひとりで行ってしまうのはヒドい、とお雪ちゃんは、心の中で少し弁信を恨みました。
それだけではない、昨晩出て行った人が一人も帰っていないではないか――宵のうちのことはここに思い出すまい、あの親切な米友さんがいない、もう帰って来そうなものだ、とお雪ちゃんはそれを心配しながら、
「先生、どうぞお手水《ちょうず》をお使い下さいませ」
鉄瓶《てつびん》の湯をうつして、道庵先生のために洗面の用意をしようとすると、
「まあ、いいよ、病人は病人のようにしていなさい、愚老なんぞは、一切万事、人任せでげす」
と言って、お雪ちゃんがかよわい手で下ろそうとした鉄瓶を、道庵が自分の手で取扱おうとして、
「あ、ツ、ツ、ツ」
と言いました。たいしたことではないのです。鉄瓶のつるが少し焼け過ぎているのを、薬缶《やかん》の方は扱いつけているけれども、鉄瓶の方は、あまり扱いつけていなかったものですから、少々熱い思いをしただけで、また神妙に取り直し、それを流し元へ持って行って道庵が手ずから洗面にとりかかりました。
五十
その翌日、長浜の町は水を打ったように静かでありました。
その前の日あたりの人民の動揺の低気圧は消散してしまったか、そうでなければあのまま凍りついてしまったようです。昨晩、篝《かがり》を焚《た》いたには相違ないのですが、今朝になって見ると、それが滞りなく炭の屑に化してしまっていただけのもので、その篝火の下で、なんら異状のものの出没が照し出された形跡はありませんでした。
少し今朝、調子が変った点がありといえば、それは、いつも早起きの町民が、少々眼の醒《さ》め方が遅いかとも思われるくらいでしたが、その時分、ひょっこりと八幡町の町の辻へ姿を現わしたのは、弁信法師に相違ありません。
「ええ少々、物を承りとうございますが、りんこ[#「りんこ」に傍点]の渡し場まで参りますには、どちらへ参りましたらよろしうございましょうか、これを真直ぐに参りましてさしつかえございますまいか、或いは右に致した方が順路でございましょうか、それとも左――」
こう言って、杖を町の辻の真中に立てましたが、誰も答えるものはありません。
それは前いう通り、時刻としてはそんなに早過ぎるというわけではないのですが、町民が今朝に限って眼のさめることが遅いのですから、自然、戸を開くことも遅れて、折から通り合わせる人もなければ、店の中で認めて挨拶をしてくれる人もないという状態なのです。
「まだ、どなたもお目ざめになりませぬな、今朝は別して皆様お静かでいらっしゃいますな、では、ともかくわたくしはこの通を真直ぐにまいってみることにいたしましょう、そう致しますると、いずれは湖の岸までは出られるように思われてなりません、りんこ[#「りんこ」に傍点]の渡しと申しますのも、つまり、その湖の岸のいずれかにあるものに相違ございませんから、何はしかれ、湖岸へ向って進んでみまして、それからのことといたしましょう」
誰も挨拶を返すものがなくとも、この小坊主は、喋《しゃべ》ることにかけては相手を嫌わないのであります。ですから、一向ひるむ気色《けしき》もなく、そのまま右の辻から杖をうつそうとすると、
「待て――」
と言って、一人の足軽が棒をもって物蔭から立現われました。
「はい」
「坊主、貴様はどこへ行くのだ」
「はいはい、わたくしは竹生島へ参詣をいたしたいと心得て出てまいったものでございます、最初の出立を申し上げますると、日蓮上人が東夷東条|安房《あわ》の国とおっしゃいました、その安房の国の清澄のお山から出てまいりまして、その後追々と国々を経めぐってようやくこの近江の国の胆吹山の麓まで旅を重ねて参りましたものでございますが、ごらんの通り、旅路のかせぎと致しまして、平家琵琶の真似事を、ホンの少しばかりつとめますもの故に、この近江の国の竹生島は浅からぬ有縁《うえん》の地なのでございます……」
「これこれ、そうのべつにひとりで喋りまくってはいかん――貴様、見るところ目が見えないのだな」
「はい、ごらんの通りでございます、まことに前世の宿業が拙《つたの》うございまして、人間の心の窓が塞がれてしまいました、浅ましい身の上でございます。そもそもわたくしがこのような運命に立至りました最初の……」
「これこれ、まだ貴様の身性《みじょう》を調べたわけではないのだ――連れはあるのか、ないのか」
「はい、連れと申しまするのは一人もございません。一緒に連れて行ってもらいたいと申したものはございましたが、思案をいたしてみますると、独《ひと》り生れ、独り死に、独り去り、独り来《きた》るというのが、本来出家の道でございまして、ましてこの通り不具《かたわ》の身ではありますし、われひと共に迷惑のほどを慮《おもんぱか》りました事ゆえに、わたくしは誰にも挨拶なしに、こっそりと抜け出して参りました。あの竹生島へ渡りますには、大津から十八里、彦根から六里、この長浜からは三里と承りました、このいちばん近い長浜の地から出立させていただくことも、本望の一つなのでございます……そもそも私がこのたび、近江の国の土を踏みまして、琵琶の湖水を竹生島へ渡ろうと思い立ちました念願と申しまするは……」
「いいから行け! 行け!」
足軽はついに匙《さじ》ではなく棒を投げてしまいました。つべこべとよく喋る坊主で、黙って聞いていれば際限がなかりそうだし、そうかといって、咎《とが》め立てをして拘留処分を食わすには余りに痛々しいものがある。それにまた、江州長浜という土地は、昔は錚々《そうそう》たる城下の地であったが、近代は純然たる商工都市になっている。そうして同時に信仰の勢力がなかなか侮《あなど》り難いものがある。うっかり坊主を侮辱して、現世罰の祟《たた》りを受けてもつまらないと感じたのか、そのことはわからないが、足軽がとうとう棒を投げ出して、弁信の無事通過を許さざるを得なくなりました。
五十一
しかし、どこをどうして来たか、そのうちに弁信は湖岸の一部へ出るには出ました。
そのたずねていたところの、りんこ[#「りんこ」に傍点]の渡しというのが、果していずれのところにあって、その乗合船の出発の時間がいつであるかということの観念はないらしいが、とにかく船着だから、水に近いところにあるという判断には間違いなく、さればとりあえず湖の岸へ出ることによって、目的地に当らずとも遠からぬ地点に達していると信じてはいるらしい。そうして湖岸をめくら探しにぐるぐる廻っているうちに、瓢箪《ひょうたん》のくびれたような地点をとって、岬と覚しい方面へずんずん進んで行ったのでありましたが、さすがの弁信もここでは少々勘違いを演じたと見え、岬の突端の方を当てにして進んで行くほど物淋《ものさび》しくなって、草深くなって、そうして木立さえ物々しくなるのでありました。通常、山へ向っては奥深く、水へ向っては殷賑《いんしん》を予想されるのでありますが、今はそれが裏切られて行くような筋道にも、弁信はさのみ失望しなかったと見えて、その草叢《くさむら》の中を進み進んで行きますうちに、ある巨大なる切石が置捨てられてあるところで足を止めました。
「モシ――」
と、そこでまた突然と、物に向って呼びかけたのですが、無論、誰もいないのです。見渡す限り、この荒園のようになっている木立の間から、湖面が渺《びょう》として展開されているのを見るには見るが、そのあたりは全く人気のない荒涼たる湖岸の地となっているところで、弁信が足をとどめて聞き耳を立てて後、「モシ――」と言ったのは、前例によって見ると、何ぞ相当に人臭いものをかんづいた故にこそでしょう。しかし、手答えはありませんでした。
「モシ――少々物を承りたいのでございますが」
明眼《めあき》の人の眼は外《はず》れても、弁信の勘の外れた例のないのを例とすることによって、こうして弁信から、「物を承りたい」と呼びかけられた当面には、何か相当のものが存在していなければならないはずなのです。
果して、有りました。有ってみると、かくべつ珍しいものではありませんでした。
それは、今も言った弁信が、杖を立てて踏み止まったところから、ある僅少の距離を隔てて、荒草の間に蟠踞《ばんきょ》していたところの巨大なる切石のはざまにうずくまって、丸くなって寝ていたところの一つの動物があったのですが、それはちょうど、弁信の立っているあたりの地点の背面からは見えないのみならず、前へ廻って見たところで、丈《たけ》なす荒草と、切石というよりも巌と巌との間と言った方がふさわしいほどの、岩角のはざまにはさまって眠っているのですから、わざわざ探さない限り認められようはずがありません。且つまたこの動物は、この絶対の避難地とも安全地帯とも言える穴蔵《あなぐら》の中で、いとも快き眠りを貪《むさぼ》っているものですから、寝息とても非常に穏かなもので、昼寝の熟睡に落ちているのですが、弁信の第六感に逢ってはかないませんでした。
「モシ――お仕事中をおさまたげして相すみませんが、少々物を承りたいのでございますが」
二度まで繰返して、それから、とんと一つ杖をつき返してみました。その杖の音にはじめてこちらの動物が夢を驚かされたのでしょう、むっくりはね起きて、
「なに、なに、何だって、誰か何か言ったのかい」
動物が、むっくりと巌角の間から身を起して、こう言って、キョトキョトと眼を見廻したことによって、単なる動物でないことがわかりました。
巌とはいうけれども、本来、ここにこういう岩石が構成されているという地質のところではないのですから、何かその昔の、相当宏大なる建築の名残《なご》りでなければならないところの巌と巌との間にはさまって、快眠を貪っているところだけを見れば、誰にも動物! むじなとか、狸とか、或いは穴熊とか言ってみたくなるでしょうが、こうしてむっくりはね起きて、その瞬間、歯切れの悪くないタンカを飛ばしたところを見れば、もちろんこれも動物の一種には相違ないが、その意外なる存在に少々驚き呆《あき》れしめる。一方の小法師はその図を外さずに、
「あの――少々物を承りたいのでございますが、この辺にりんこ[#「りんこ」に傍点]の渡しというのがございましょうか。わたくしは、その渡しから竹
前へ
次へ
全44ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング