がわからねえんだ、おいらの方ではうやむやなんだ、お前《めえ》の方だけで、ひとり合点《がてん》をしているんだ」
「そんなことを言っても、もう駄目よ、黙っていることに、友さんは充分、わたしに好意を持って、わたしの頼みなら何でも聞いてくれる心持を充分持ちながら、生返事をしたんだから、わたしとしては、立派に友さんを承知させてしまったと受取っているのよ、それを今になって、とやかく言うなんて、友さんらしくもない、男らしくもない、女の腐ったようだ」
「こりゃ、手厳《てきび》しい!」
と米友が眼を円くしながら、
「そりゃ、おいらだって、頼まれりゃ、男と見込まれなくったって、していい仕事ならすらあな、まして、お前とおいらの仲は他人じゃあねえ」
「まあ嬉しい」
 お銀様の声に、異様なる昂奮のひらめきがありました。
「わたしと、友さんと、他人でないと言ってくれましたわね」
「そりゃ、お前はどう受取ったか知れねえが、この土地も、この家も、みんなお前が正当の代価を払って買い受けたものだろう、その領分の中に仮りにも、こうやって衣食住を受けていりゃ、主と家来――と言わねえまでも、同じようなものだあな」
「ほんとに嬉しい、友さんの心意気が何という嬉しいことでしょう。では友さん、お前は、わたしの家来なんだね」
「まだ家来というわけじゃねえが、どっちかと言えば、頼まれて来た客分のようなものなんだが、でも、世話になっている以上は、お前を主と見て、するだけのことをするのが当然の態度なんだ」
「まあ、なんて可愛らしいことを言うんでしょう。では、なんにしても、友さんはわたしの家来、わたしは友さんの主人なのね」
「当座は、そんなようなわけなんだ」
「では友さん、今までは頼みでしたけれど、今度は命令になってかまいませんね」
「そりゃ――」
「もし一家の主人の命令が、家来に届かないとすれば、その家は成り立ちません」
「理窟はそうだ」
「一国の領主の命令が、領内の民に受入れられなければ、一国は成り立ちません」
「理窟はそうだ」
「では友さん、いまお前がうやむやにした第二のわたしの頼みというものを、思い切ってわたしは、命令の形式でお前に申し渡すわ、それなら否《いや》の応《おう》のはありますまい」
「ちぇッ、くどいな」
「くどく言いたくないけれど、お前がわからな過ぎるからよ」
「わからねえ。わからねえのがあたりまえだ」
「では、改めて、わたし、はっきりと第二のお頼みを――いいえ、お頼みではない、命令の形式で、友さんに申し渡します」
「ちぇッ」
「否とは言わせません」
「ちぇッ」
「まあ、そんなに意気張らなくてもいいわ、もう好意ある黙諾を受けていることを、かりに形式で申し渡すだけなんだから」
「ちぇッ」
「ねえ、友さん」
「何だ」
「お前、今晩、ここで、わたしと一緒に寝ない?」
「エッ」
 宇治山田の米友が、この時ばかりは、飛丸に胸を打貫《うちぬ》かれたように絶叫しました。

         三十三

「もう聞きません、女から男への頼み、主から家来への命令、この二つの掟《おきて》を破れるものなら破ってごらん」
とお銀様は、灼熱《しゃくねつ》の鏝《こて》を米友に向ってグイグイと押当てる。
「ばかにするない」
 坐りながら、米友がタジタジと座をさがって行きました。
「どっちから行っても許しません。それよりも、友さん、お前は今晩、ここで、わたしと一緒に寝て悪いという証拠があるのですか」
「ばかにするない」
「ばかにするどころですか、わたしは、今晩に限って友さんが可愛くてたまらないのよ、ねえ、怒らないで考えてごらんなさい、友さん、お前にはおかみさんは無いでしょう」
「ばかにするな、こん畜生!」
「怒らないでさ。お前さんにおかみさんが無いように、わたしにも御亭主というものはありません、ですから、二人が、ここで一緒に寝ようとも、起きようとも、誰が咎《とが》める者がありましょう」
「ばかにするなよ、この阿魔《あま》!」
「ばかになんぞしちゃいませんよ。それからねえ、友さん、お前さんだって、男でしょう、わたしだってこれでも女の端くれなのよ、女が男に惚れておかしいということがありますか、男と女とは、許すもののように出来ているのが本当で、許されないというのは、神代からの掟《おきて》ではないのです」
「ふざけるな! いいかげんにしろ!」
「何がふざけるのですか、友さん、ごらんなさい、あの奥の間で、二人の仲のよいこと、あれは何ですか、一方が眼が見えようとも見えまいとも、男は男に相違ない、一方は、まだ世間知らずとは言いながら、油断のならない、小娘だって女のうちじゃありませんか、その男と女の二人がああして仲よく奥の一間にいるのを、友さんは何とも驚きもしない、咎めもしないで、おとなしく張番をしていながら、それと同じことを言い出したわたしを、畜生だの、阿魔だの、くたばれだのと悪口雑言をなさるのがわからないじゃありませんか――わたしと寝るのがいやならば、あの奥の間の二人をどうするのですか。それがどうもできない限り、お前はわたしの頼みを聞いてくれない理由はありません。いやいや、もう今となっては、そんな生ぬるいことじゃありません、お前という人は、どうしても、わたしの命令に絶対服従から免れることじゃないのよ、友さん、わたしは、お前が好きで好きでたまらなくなった」
「馬鹿、畜生、阿魔、そんなことが聞いていられるか! どうするか見やあがれ」
「どうともしてごらん、煮るとも焼くとも、横にするとも縦にするとも、わたしの身体《からだ》を今晩は友さんに、そっくり上げるわ、好き自由に、いいようにして頂戴」
「うむ――」
「まあ、あつらえたように、そこに蒲団《ふとん》も枕も出してあるわ、あのお雪さんていう子、なんて粋《すい》の通る子でしょう」
「ちぇッ、どうするか見やあがれ、このかってえ坊[#「かってえ坊」に傍点]!」
と米友が怒罵して、ぐっと炉辺に仁王立ちになって再び叫びました、
「かってえ坊[#「かってえ坊」に傍点]!」
 おそらくこれが悪罵の頂上でしょう、馬鹿と言い、畜生と言い、阿魔と言い、いずれにしても人に快感を与えるものではない、他を辱《はずか》しめると共に、自らを辱しめずには置かない非紳士的の悪態ではあるけれども、それは尋常人も、どうかすると沸騰的に使用することもあるが、かってえ坊[#「かってえ坊」に傍点]に至っては――もう頂上であり、極度であって、折助、夜鷹の類《たぐい》といえども、滅多に口にすることを恥づる冒涜《ぼうとく》の言を、米友が弄《ろう》しました。弄したのではない、この際の、彼としての憎悪《ぞうお》と、忌避と、憤怒とを最大級に表現する言葉としては、これよりほかに見出せなかったのでしょう。
 そうして、ぐっと炉辺に仁王立ちになって、杖槍を八相《はっそう》の形に構えました。その形相《ぎょうそう》、米友のことだから、仁王立ちとはいうものの寸が足りない。今し、また燃えさかった炉火で見ると、赤々と照らされた黒光りの肌と、忿怒《ふんぬ》の形相、それは宮本武蔵が刻んだという肥後の国、岩戸山霊巌洞の不動そっくりの形です。

         三十四

 室内はこうも張りきった怒罵、悪言の真最中であるにかかわらず、ちょうどこの前後の時、一つの生ぬるい、だらしのない叫び声が、思いがけない方角から起ったのは――
「頼むよう、助けてくんなよう、人殺し――」
 なんという生ぬるい、だらしのない声だろう。だが、明瞭に聞き取れる言葉そのものの綴りは、頼むと言い、助けてくれと言う。ことに、人殺し――に至っては、もう人間の危急として、これ以上の絶叫は無いのです。然《しか》るにもかかわらず、ここへ響いて来る音調は、こうも生ぬるい、だらしのない、歯切れの悪い音調なので、むしろ、人をばかにしているようにしか聞き取れない。
 こんな生ぬるい、だらしのない、歯切れの悪い絶叫は、いかに九死一生の場合とはいえ、人はむしろ助けに行く気にならないで、ザマあ見やがれ――と蹴《け》くり返したくなるほどの生温《なまぬる》い、だらしのないものでありました。
「頼む、頼む、おたのん申します、男一匹がこの場に於て、生きるか死ぬか、九死一生の場合でげすから――」
 ちぇッ――いよいよ以てたまらない。聞けば聞くほど生温い、だらしのない音声だ。といって、全く聞捨てにもならないのは、この深夜、胆吹山《いぶきやま》の山腹で振絞る声なのですから、わざわざ好奇《ものずき》に、こんなところまで、こんなだらしのない絶叫を試みに来る奴があろうはずはないのです。
 では、狐か、狸か――しかし、今時の狐や狸は、もっと気の利《き》いた声色を使う。いったい何者だ!
 たとい生温いとはいえ、だらしがないとはいえ、歯切れが悪いとはいえ、その音色に危急存亡の声明とはハッキリとしていて、またその響き来《きた》った方角というのも、この館《やかた》の出丸の直下、石垣が高く塁を成して積み上げられている根元から起って来たのはたしかなので――それ、また続いて聞える、
「誰かいねえのかね、男一匹が、ここで生きるか死ぬかの境なんだから、どうか助けておくんなさい、この上の火の光をたよりにここまでこうやって、のたりついたところなんでげすから――どなたか起きて、ひとつ助けておくんなさい、後ろには大敵を控え、前には絶壁、全く以て、男一匹が生きるか死ぬかの境なんでげすから――」
 続けざまに起る救助を求むるの声、なんてまた生温《なまぬる》さだろう、男一匹が生きるか死ぬかの際に、こういう声を出すくらいなら、黙って死んでしまった方がいい。勝手にしやがれと、噛《か》んで吐き出したくなるほどの、いやな声なのですが、しかし、それは感情の問題で、事実上、一人の人間が、この石垣の下あたりの地点まで、のたりついて、進退|谷《きわ》まって助けを呼んでいることは間違いないのですから、その声の生ぬるさの故を以て、その人の生命《いのち》を見殺しにするわけにはゆかないのです。
「ちぇッ――意気地のねえ野郎だな」
 内に向って怒号しきった米友が、外に向って噛んで棄てるような声。
「待ってろ、いま行って見てやるから」
 寸の足りない不動は濛々《もうもう》たる火焔を抱いて、転がるようにまたも外へ飛び出してしまいました。
 そうして、松の大木の根方のところから、三浦之助が安達藤三を呼び出すような恰好《かっこう》をして、そうして石垣の下を見下ろし、
「いってえ、どうしたと言うんだい、この夜中に、こんなところへのたりついて、人騒がせをやりゃあがって」
と叱りつけました。
「済まねえ――夜中にお騒がせ申して、ほんとに申しわけはねえと思うが、なにぶん、後ろには大敵、ところは名にし負うおろち[#「おろち」に傍点]の棲《す》む胆吹山――日本武尊《やまとたけるのみこと》でさえお迷いになった山なんだから、そこんところをどうかひとつ……」
「ちぇッ、生温い声をしやあがるなあ、いま縄を下ろしてやるから、それにつかまって上って来な」
「いや、どうも恐縮千万、実はね、この胆吹山へ薬草を調べに、道を枉《ま》げてやって来たものでげすが、どうもはや、慣れぬことで、道を枉げ過ぎちまったものでげすから、いやはや、あっちの谷へ転げ落ちては向う脛《ずね》を擦りむき、こっちの木の根へつっかかっては頬っぺたを引っこすられ、ごらんの通り、衣類はさんざんに破れ裂け、身体はすき間もなく掻傷、突傷、命からがらこれまでのたりついたでげす、いやはや、木乃伊《ミイラ》取りが木乃伊という譬《たと》えは古いこと、薬草取りに来て、生命を取られ損ないなんていうのは、お話にならねえんでげす、これと申すも日頃の心がけがよくねえからでげす、今日という今日は骨身にこたえたでげす」
 下の生温い音声を発する動物は、引きつづきだらしのない声でべらべらとこんな言葉を吐き出したのが、意外にもギックリと米友の胸にこたえました。
「おや――お前《めえ》は、おいらの先生じゃあねえか」
「おやおや、そう言うそなたの声に聞覚えがある、たし
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