流れ渡る月光の外野を見ると、特に何物をか、しかと認め得たというわけではありませんが、なんとなく、いよいよ米友をして安心せしめざるところのものがある。
そこで、また眼をこすって、いきなり立戻って今度は、裏口の、つまり、その家からいえば非常口といった方面です、そこに一間間《いっけんま》だけの戸があって、心張棒《しんばりぼう》で塞《ふさ》いである、その心張棒を米友が外《はず》しにかかりました。心張棒を外から外すことは、かなり難儀な仕事だが、内から外す分には何の事はないのです。
それを外して、戸をがらりとあけて見ました。これは連子窓から見た棒縞形の世界とは違って、胆吹のスロープを充分に視野に取入れて、そうして、まぢかくはこの家の軒下をずっと見通し――果して、その軒下の南へ廻る角のところに、怪しい者の姿を米友がしかと認めて、思わず力足、例のじだんだの一種類ですが、ここは板の間の上ですから、じだんだとは言えない、床だんだとか、木だんだとかいうのが正当かも知れないのですが、「曲者《くせもの》見つけた!」というような気合で、米友が小躍《こおど》りしてみたのですが、その見つけられた怪しい者は、米友が動いたほどには動きませんでしたけれども、それでも、誰かに見咎《みとが》められたと感づいたものか、静かに軒をめぐって、姿を隠してしまいました。それは尋常の者ならば認めきれないほどの、かわし方でありましたけれど、相手は宇治山田の米友でした。
彼は、それだけで、たしかにこの家の外に今まで立っていた人がある、そうして、この軒下、雨だれ伝いに、すうーっと走って行ったことも確かである、どの地点に何時間立っていたか、或いは、ここまで新参早々で軒下を走ったものだか、その辺は明瞭《はっきり》しないが、たしかにこの家のまわりを、うろつく人影があったことを、米友は確実に感づいたのみではない、確実に認めたのだから猶予はなりません。
といって、ここから直接に飛び出すのは無謀です。第一、地の利もよくない上に、履物《はきもの》がないのです。さすがに武術の心得があるだけに米友は、地の利と足場とを無視してかかるような無茶な振舞はしない、いかに心は慌てても。
飛び出すにしても、草履《ぞうり》をはかなければならぬと考えました。考えると共に、ここには草履が無い、表口まで行かなければ、それを足にすることはできないと覚りました。しかしこの家の構えに於ては、表も裏も、そう近い距離では、米友の身体《からだ》で一っ飛びに飛びさえすれば、裏は直ちに表になり、表は直ちに裏返すことができるのですから始末はいいのです。それと、なお都合のよいことは、ただいま確認したその怪しい者の人影――たしかに人間の影法師には相違ないが、それが何者であって、何しに来たかということまでは確認していないのですが、それが人間の物影であることだけは確実に認めたし、苟《いやしく》も人間の物影である以上、深夜この辺の、しかも我々の新たに移り住んでいることを知らないはずのない怪しい奴が忍び寄っていると、こう断定しないわけにはゆきません――その怪しい奴も、やっぱり軒を南へ廻り込んだのだから、当然、自分が履物を求めようとする裏口の方へと姿を移したのです。してみると、自分が表口へ飛びうつって、履物を突っかけてあちらから外へ飛び出すと、かえって幸いに、その怪しい奴と鉢合せをするかも知れない――得たり賢しと米友が、その通り実行を試みました。
前庭の方、すなわち、鷲《わし》の子を解放して親鷲を喜ばせてやったり、その揚句、いい気持になって川中島の二の舞に陶酔したりなんぞして、さて家の中へ舞い戻ろうとした途端の鼻をギョッと白まされたあの剃刀使い、要するに、あの戸口の戸を、もう一度また内からがらりとあけて、そうして、米友が身構え充分に、やにわに広庭へと躍《おど》り出した途端、果して鉢合せ――
「友さん」
「お前《めえ》」
果然、そこで鉢合せが起ってしまいました。しかも、鉢合せをした当人よりも、合わされた米友公が、またしても泡を食わされてしまったのは、返す返すも今晩は、米友の売れない晩であるらしい。
「友さん」と言って、出合頭にそこに立っていたのは即ち、最初から米友が咎《とが》めきっていた怪しい物影、人間であるには相違ないが、その家の周囲をうろつき、軒下を走り、或いは塀の下に彳《たたず》んで、ためつすがめつしていたことらしい証跡の充分にある、その怪しい奴から先《せん》を取られて声をかけられてしまいました。
そうして、米友が「お前」と言ったきり立ちすくみになったのは、予期したとは全く番狂わせの立合であったからのことで、すなわち、この怪しい人影はお銀様であったのです。そうして、怪しい人影の、怪しいことを睨《にら》んだ点に於てはいささかも誤認はなかったけれど、まさかお銀様であろうことを、米友が睨み足りなかったことに起ったこの場の番狂わせ――
三十一
「友さん、入ってもいい?」
とお銀様から言われて、米友が、
「うむ」
と答えざるを得ませんでした。
米友としては完全なる拍子抜けです。拍子抜けというよりも力負けなんでしょう。立合で言えば全く気合を抜かれてしまったのですから、技《わざ》も、力も、施す術《すべ》がないので、相手にイナされようとも、突き出されようとも、御意《ぎょい》のままなのです。
そこで、当然、お銀様が米友をリードしてしまって、進んで例の戸口から、この家の中へ大手を振って――暴君とは言いながら女のことですから、形式に於て大手を振るような振舞はなかったけれども、ずっとその昔、本所の弥勒寺長屋で米友から、厳しい咎めだてを蒙《こうむ》りながら、ついに屈することを為さなかった、覆面のまま人の座敷へ進入する、その傲慢無作法だけは今晩も改めないで――ずっと座敷へ、以前、お雪ちゃんも坐り、奇怪千万な剃刀の使い手も坐り、現在は米友が快く夜船を漕いでいた当時の炉辺へ来て、然《しか》るべきところへお銀様が、米友に先立って座を占めてしまいました。
おぞましくも、米友はそれにリードされたのみならず、弥勒寺長屋の時のように、たんかをきって、それを咎めだてすることをさえ為し得ず、唯々《いい》としてお銀様に導かれて、自分も、さいぜんの夜船の座に直りました。
これは、いかに米友理窟を以てしても、ちょっと文句がつけられないのです。というのは、傲慢であろうとも、無作法であろうとも、ここに鎮座し給う覆面の女将軍は、まごう方なきこの地方の新領主であることを、米友の理性が許しているから、自然、この家の軒下であろうとも、縁の下であろうとも、竈《かまど》の下であろうとも、この女人の王土のうちでないということは言えない。してみれば晴天であろうとも、深夜であろうとも、王者が王土に親臨し給うことに於ては文句がつけられない。我々は、たとい王臣というものでないとしても、その王土の中の一種のかかりうどなのだ。
そういう理解の下《もと》に、多分、米友はその王者の傲慢無作法を許していたのだろうと思われます。
「友さん、今晩、わたしを此家《ここ》へ泊めて頂戴な」
充分に座が定まってから、女王の第二段の勅命がこれでありました。
「うむ」
と米友が唸《うな》りました。唸ったのは返事なのです。返事であるが、是とも非ともいう意味はその中に含まれていない。それは、やっぱり米友の頭で、是とも否とも含ましむるだけの意味を見出せなかったからでしょう。何となれば、現に王土であり、王物であることを是認する以上は、泊めてくれも、泊めてくれないもあったものではない。自分の家で、自分が勝手に手足をのばすべきことを、支えん様はないと観念しているからでしょう。そうすると、第三段になって女王の仰せには、
「よければ、あの奥の間へ泊めて頂戴な」
「あの奥の間――」
と言って、米友が鉛玉《なまりだま》を飲まされたように、眼をまるくせざるを得ませんでした。
ここに至って、今まで忘れていたように、奥の間のことまでがハッキリと米友の頭に再びうつって来ました。
三十二
「いけないの? いけなければ頼みません」
とお銀様がキッパリ言いました。
「うむ、そいつは、よした方がよかろう」
と、ここで米友が、はじめて内容のある言葉を発しました。
「じゃ、よしましょう」
とお銀様が、立ちどころに相応じました。
「よした方がいい」
米友も頑《がん》として下りませんでした。
「よします、お前さんが、いけないと言うものを強《し》いてお頼みはしません」
「うむ」
「じゃ、米友さん、ここへ泊めて頂戴」
「うむ」
「いいの?」
「うむ」
「ここならいいの?」
「うむ」
「奥の間ではいけないけれども、ここへなら泊めて下さるの?」
「うむ」
「まあ、有難う、では、ここへ泊めていただくことにして……」
お銀様は、覆面の中から米友の面《かお》を、まともに見つめました。睨《にら》むのと同様です。さすがの米友も、真向きに見られて、まぶしいような、テレ臭いような、小癪《こしゃく》にさわるような気分に迫られたけれど、どうも今晩は、今晩だけではないが、この女に対しては、そうポンポン啖呵《たんか》がきれないのです。といっても、それはお角さんに対する時のように、妙にすくんだ高圧されるような意気込みで、たんかがきれないのではなく、この女王に対しては、何とも言えない、一種の親しみを感ずるような点から、米友がテキパキと、そっけなく片づけきれない何物かがあるのです。
「ねえ、友さん」
「うむ」
「じゃ、もう一つ頼みがあります、聞いて下さる?」
「うむ――」
頼み、頼みと、言葉だけはしおらしいものだけれども、この頼みというやつが、なまやさしいものではないことを、米友はよく呑込んでいる。しかし、かりにも頼み――と言われてみれば、「おれも男だ」という緩怠心が湧き出さない限りもあるまい。
「ああ、よかった、友さんが、わたしの第二の頼みを聞いてくれました」
こう言ってお銀様は、凱歌《がいか》をあげるような、あざ笑いをするような独断を試みたので、米友が狼狽《ろうばい》しました。
「まだ、聞いたとも聞かねえとも言やしねえんだ、いってえ、その頼みというのは何なんだエ」
ここで、あぶなく食いとめて駄目を押したのですが、お銀様は猶予なく、覆面の首を横に振りました。
「いけません、もう遅いですよ、黙っていたのは承知のしるしなんですからね」
いかにも、黙許とか、黙諾とかいう不文律はあるにはあるけれど、それをこの場合、米友に向って強圧的にはめ込もうとするお銀様の了見方《りょうけんかた》がわからない。
「ちぇッ」
と米友が舌打ちをしましたけれど、一向ひるまないお銀様には、薪を加えたようにも、油が乗ってきたようにも見受けられ、
「もう許しません、一旦、お前は承知をしたのだから」
「承知をするにもしねえにも、頼まれる事柄そのものが、まだわかっちゃいねえじゃねえか」
「お前にはわからなくても、こちらにはわかっています、そうして、たった今の先、お前から充分に無言の承諾を得ていますからね」
「ばかにしなさんな」
通例は、「ばかにしてやがら」と言うべきところを、相手が相手のせいか、米友としては、「ばかにしてやがら」が「しなさんな」にまで緩和されてきました。
「男らしくもない」
とお銀様が、横目で睨《にら》む。
「何が」
「何がって」
「何がどうして」
「何がどうしてたって、男らしくもない」
「何がどうして、おいらが男らしくねえんだ」
「だって、いったん承知をしておきながら」
「いったん承知? 何を」
「奥の間がいけないから、ここへ泊めてくれることを……」
「そりゃ、お前の勝手だよ、泊ろうと泊るまいと、本来お前の持物なんだ、おいらの承知もなにもあったものじゃあねえ」
「でも、米友さんが留守居をしている以上は、米友さんの許しを得なければなりますまい。まあ、それはどうでもいいとして、第二のお頼みも承知してくれたくせに」
「それだ――その第二の頼みというやつ
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