かに友兄《ともあに》いにきわまったり、友兄いとあれば天の助け、ここで会ったが百年目!」
 生温い、だらしのない、歯切れの悪い上に、これはまた何というキザたっぷりの緞帳臭《どんちょうくさ》い返事だ!

         三十五

 ともかくも、宇治山田の米友は道庵先生を引き上げて、以前再三繰返された場面の炉辺に持って来て押据えました。
 この時、お銀様の姿は、もうここには見えませんでした。奥の一間も、ひっそりかんとしたものです。
 奥の一間のひっそりかんとしたのは今に始まったことではないが、お銀様のいずれへ消えたかということは、多少の問題にならないではありません。まさか、ひっそりした奥の一間の平和をかき乱さんがために、あれへ闖入《ちんにゅう》したものとも思われません。その証拠には、現に、奥の一間の平和の空気が、少しも攪乱《こうらん》されている模様のないことでわかります。
 してみると、多分、あの母屋へつづく、あの廊下口から出て行ってしまったものに相違ありますまい。なるほど、そう言われて見ると、さきほど米友がお雪ちゃんの頼みで固く締切った時とは違って、戸前が少しゆるんでいる――お銀様は、たしかにあれから母屋の方へ、ともかく引上げ去ったと見るほかはありますまい。
 炉辺へ持って来て押据えた道庵を見ると、これはまた、あんまりだらしがないのも、こうなると寧《むし》ろ悲惨な心持がして、米友も、腹を立てる気にもなれませんでした。
「先生、なんてザマだい、そりゃ……」
「済まねえ――」
 呂律《ろれつ》が廻らないだけならいいが、身体の自由が全く利《き》いていないのです。飲み過ぎて身体の自由の利かないことは、この先生としてはあえて異例ではないのですが、今晩のは、只事ではない。全く、さいぜん生温い声で助けを呼んだ言い分と同様、衣服は裂け、面《かお》と言い、手といい、向う脛《ずね》と言い、露出したところはすり創《きず》、かすり創、二目と見られたものではないのです――でも、申しわけのためかなんぞのように、左の片手には、薬草を一掴み掴んで、放そうとはしていない。それも、やはりさいぜん、薬草をとるべく来って、道を枉《ま》げたとか、道に枉げられたとかいう、生温い声明が無ければ、米友といえども、薬草であることは知るまい。溺るるものは藁《わら》をもつかむということだから、崖をでも辷《すべ》り落ちる途端に掴んだ草の根か馬の骨をそのまま、掴み通しにして来たとしか思われないでしょう。
 幸いに、不幸中の幸なのです、その擦り傷、かすり創というのも大したことではありませんでしたから、米友が、手拭をお湯で絞って、少しずつ拭いてやると、ごまかしが利いてしまう。
 その間も道庵は、ほとんど正気がないのです。相手が米友とは、いったん心得たようだが、それも、もう忽《たちま》ち見境いが無くなってしまったらしく、妙な手つきをして、四方を撫で廻した刷毛ついでに、米友の面を撫でてみたりして、気味を悪がらせていたが、その朦朧《もうろう》たるまなざしに早くも認めたのが、ずっと宵の口から問題になっていた、お雪ちゃんの米友のためにとて取り出して置いた夜具蒲団でした。
「占めた――もうこれよりほかにこの世に望みはねえ、世の中に寝るほど楽はなかりけり、浮世の馬鹿が起きて働く……これがこの世の後生極楽」
 減らず口だけはなかなか達者で、いきなりその夜具蒲団にかじりつくと、無我夢中でそれを敷き並べ、枕を横にあてがうと、頭から夜具をかぶって――早くも鼾《いびき》の声をあげました。
「ちぇッ――いつになっても、人に世話を焼かせる先生だなあ」
 手ずから夜具をひっかけたけれども、両足が蝸牛《かたつむり》の角のように突き出しているのを、米友がかけ直して、つくろってやり、そうして自分はまた炉辺へ戻って沈黙に返る時に、鶏が鳴きました。

         三十六

 脱線は道庵の生命である。脱線が無ければ道庵が無いというほどの事の道理を知り過ぎるほど知り、味わい飽きるほど味わわされている米友にとっては、事柄そのことは驚異ではありませんでした。ただ、脱線である以上は、どこまでも脱線でなければならないのです。脱線でも線という名のつく以上は筋道があるはずなのです。つまり脱線はいか様に突っ走ろうとも脱線であって、無軌道ではないはずです。
 従来とても道庵の行動に於て、そのほとんど全部を脱線として認められてもやむを得ないものがあるけれども、これを無軌道、無節制、無道徳、無政府と見てはいけないのです。
 ところが、今夜という今夜、道庵が今時分になって、胆吹の山中へ迷い込んで、命からがらの目に逢わされているということは、もはや脱線の域ではなく、無軌道の境に入っている。無軌道というよりはむしろ墜落の部に類する。つまり破天荒の行動といわなければなりません。
 脱線と言い、無軌道と言ってみたところで、その行状がいかに滅茶であり、無茶であり、常軌を逸していたところで、それはまだ地上の区域に即しての行動にほかならぬのですが、墜落となってはもはや地球上の振舞ではなくして、無限の空間的行動、人類が二十世紀以後に至ってはじめて常識として受取ることのできた飛行機時代に至って、初めて現われたところの現象、でなければ日本に於ては元亨釈書《げんこうしゃくしょ》の記す時代に遡《さかのぼ》って、大和の国|久米《くめ》の仙人あたりにしか許されなかった実演、でなければそれよりさき、奈良朝時代に華厳宗《けごんしゅう》の大徳|良弁《ろうべん》僧正の幼少時代に於て現出された――それは、今般、ここらでお馴染《なじみ》になっている猛禽と同様、鷲《わし》のためにさらわれた幼児としての良弁僧正が経験した空中から地上への墜落、飛行機以前に於ても右様な実例、空中から地上へ人間が降るという右の二つの歴史に就いて考えてみましても、それは、今晩の道庵の身の上には甚《はなは》だ適切にはあてはまらないのです。道庵がまだ地上の代物《しろもの》であって、仙人の通力を授かっていないことは申すまでもないが、考証を正確にするために、ここに元亨釈書の和解の一節を掲げてみましょう。
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「久米仙ハ大和国上郡ノ人ナリ、深山ニ入テ仙法ヲ学ビ松ノ葉ヲ食シカツ薜茘《へいれい》ヲ服セリ、一旦|空《くう》ニ騰《のぼ》ツテ故里《ふるさと》ヲ飛過グルトテ、タマタマ婦人ノ足ヲ以テ衣《きぬ》ヲ踏洗フヲ見タリシニ、ソノ脛《はぎ》ハナハダ白カリシカバ忽《たちま》チニ染著《せんぢやく》ノ心ヲ生ジテ即時ニ堕落[#「堕落」はママ]シケリ、ソレヨリ漸《やうや》ク煙火ノ物ヲ食シテ鹿域《ろくゐき》ノ交《なか》ニ立却《たちかへ》レリ、サレドモ郷里ノ人モシクハ券約ノ証文ニ其名ヲ連署スル時ハミナ前仙某ト書キタリケリ……」
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 右の一節と比較してみても明らかなる如く、道庵は「深山ニ入テ仙法ヲ学」ばんためにこの胆吹山に来たのではなく、「松ノ葉」を食せんがために来たのでもなく、ただ、やや類似しているのは「薜茘」をどうかしようとの学術的探究心に駆《か》られたのでありまして、久米仙あたりとは、根本的に性質と目的とを異にしている。それにです、第一、相手方の方にして考えてみても、今時、この胆吹山の山腹あたりに、十八文の先生風情に向って誘惑を試むべく、ふくらっ脛《ぱぎ》の白いところを臆面なく空中に向って展開しているような、洒落気《しゃれけ》満々たる女があろうとは思われないし、また、先刻の大きな鷲《わし》にしてからが、良弁《ろうべん》とか弁信とかいったような可愛らしい坊主の頭の一つもあれば、さらってみようとの出来心を起すかもしれないが、この薄汚ない、拾ったところで十八文にしかならない老爺を、わざわざ重たい思いをして空中まで引き揚げてみようという好奇心も起らないでしょう。
 してみれば、道庵先生が今晩このところへのたり着いたのは、結局、脱線でもなく、無軌道でもなく、墜落でもなく、要するに尋常一様の平凡にして最も常識的なる行動のとばっちりと見るほかはないので、事実もまたその通り。その最もよく証明するところのものは、この時に至るまで、今も現に縦の蒲団《ふとん》を横にしてのたり込んだ寝床の中までも、しかと片手に握って放さないところの一片の草根木皮が、それを有力に説明するのであります。
 道庵先生こそは、実に薬草を採取すべく、乃至はそれを調査すべく道を枉《ま》げて、この胆吹山に入りこんだのであります。
 医者が薬草をとる――天下にこれほど当然にして常識的な行動はない。酒屋が酒を売り、餅屋が餅を売り、車曳《くるまひき》が車を曳き、犬が西へ向けば尾が東ということほど、自然にして通常な行動であり、ことにまた、その胆吹山という山が薬草の豊富を以て天下に聞えた山であるという以上は――それは明らかに歴史も証明し、実際も裏書きする――織田信長が天主教に好意を持っていた時分に、この山を相して薬園の地とし、外国種の薬草三千種を植えたという事蹟は動かせないことだし、更にその以前に遡《さかのぼ》って見ると、延喜式の中に典薬寮に納むる貢進種目として「近江七十三種、美濃六十二種」とある薬草は、そのいずれの方面よりするも必ずや、この胆吹山によるところの薬草が大部、ほとんど全部を成しているであろうことは信ぜられるのですから、いやしくも医学に志あり、本草に趣味を有する人にとっては、この胆吹山は唯一無二の宝の山といってもよいのです。されば、職に忠実であり、学に熱心であるところの日頃心がけのよい道庵が、この山に突入することが当然で、突入しないことがむしろ外道《げどう》であり、怠慢であるという理窟になるのですから、その点から考慮しても、道庵の胆吹入りは、脱線でもなければ無軌道でもなく、また墜落でもないことの証言は成り立つのです。
 ただ、もう少し追究すると、そんならそれで、従者なり、案内人なりを連れて、白昼やって来ればよいのに、この真夜中に、こういう危険を冒《おか》してまで探究しなければならぬ必要と、薬草とがあるか? というようなことになるのですが、それは専門家としてのこの先生に減らず口を叩かせると、本来、薬草というものは、見物に来るべきものではない、臭いをかいでなるほどとさとるものもある、臭いをかぐには深夜に限る、なんぞと理窟をこねるかも知れない。また草木の真の植物的機能を知るために――草木といえども、動物と同様に休息もすれば、睡眠もとる機能がある、それを観察するために、わざと深夜を選んだという理由も成り立たぬことはないでしょう。ことにまた植物の葉というものは、空気に先だちて暖まり、空気に先だちて冷ゆるものであるから、葉温は空気の温度に支配せらるるというよりも、むしろ葉温が気温を支配するというのが至当であるという見地から、植物の葉の温度は、日中には著しく気温よりも高く、晴夜には著しく気温よりも低いということの実験を重ねるために、わざわざ深夜を選んだということの理由も成り立たないではないが、地方から最近転任のお巡りさんが、挙動不審犯を交番へ連れ込んだ時のように、この先生の行動の出処進退を調べ出しては際限がない。第一、この胆吹山へ突入までの石田村の田圃《たんぼ》の中で、衣裳葛籠《いしょうつづら》を這《は》い出して、田螺《たにし》に驚いて蓋をさせたあの場を、どうして、どういうふうに遁《のが》れ出して、この胆吹山まで転向突入するまでに立至ったのか、その証拠固めをして、辻褄《つじつま》を合わせるだけでも、容易な捜索では追っつかないが、それは酔いのさめる時を待って徐《おもむ》ろに訊問をつづけても遅くはあるまいが、要するに、道庵は道庵として職に忠実にして、学に熱心なるのあまり出でた、全く無理のない行動をとって、ここに縦の蒲団を横にして、上平館《かみひらやかた》の松の丸の炉辺に寝込むまでの事情に立至ったことを、信じて置いていただけばよろしいのです。

         三十七

 右の如くして道庵先生の行動に関する限り、挙動不審は一応晴れたけれども、この麓《ふ
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