そうして、鶯《うぐいす》の鳴く前芸のように咽喉をしめて、何か本格の芸事をはじめようと構えた時に、兵馬が、別の方向にふと聞き耳を立てました。女の方も何か少しおびえてきました。
 気のせいか、峠の向うで人の声がしきりにガヤガヤとしだしている。
 兵馬は、ひらりとその音の方を見届けに行きました。

         十一

 峠の鼻のところまで物見に出て行った宇津木兵馬は、少しく狼狽《ろうばい》の気味を以て取って返して来ました。
「困った!」
「誰か参りますの」
「人が登って来る――しかもその人が、仏頂寺弥助と、丸山勇仙らしい」
「えッ、仏頂寺!」
と言って、さすがの福松が、今まで晴々していた面《かお》の色をさっと変えました。兵馬も同じ思いと見えて、
「あの連中と逢っては為めにならない」
「隠れましょうよ――早く」
「隠れるに越したことはあるまい」
「さあ、早く、あなた、これをお持ち下さい」
 二人は秋草を分け、木の間を分けて、早くもめざしたところの樅《もみ》の大木の二本並んだ木の蔭へ来て、叢《くさむら》の茂みに身を隠してしまいました。
 ほど経て――のっしのっしとこの峠の上へ、無論高山とは
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