さんという土地の通人がこしらえたうたなのよ――古風なのと違って、また乙なところもあるでしょう、おとなしく聞いていらっしゃいね」
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思う殿御と
ころがり月を
晴れてみる夜が
待ち遠し
 (口三味線で合の手)
梅も桜も
一度に咲いて
よそじゃ見られぬ
飛騨の春
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 兵馬は、なんとなくいよいよいい心持に引込まれて行くのです。事実、芸者のうたなんぞと軽蔑していながら、今日はどうしたか、それからそれと深みに引入れられて思わずうっとりとしてしまったところを、
「まあ、あなた、わたしのうたを感心して聞いていらっしゃるわね、頼もしいわ。そりゃあなただってお若いんですもの、うたを聞いていやな気持ばっかりなさるはずはないわねえ。お若いうちは食わず嫌いから、皆さん堅そうなことをおっしゃいますけれど、人間がほぐれて行くほど、お酒の味も、咽喉の味もわかって参りますのよ。あなたというお方も、もうこっちのもの、これから、わたしがみっちり仕込んであげるわよ。ところでもう一つ、今度は、飛騨の高山の土地のうたでない、本場のお座附をわたし、あなたのためにうたってあげるわよ」
 
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