全くあしらい兼ねているものの、いつまでも黙ってもいられないので、
「そういうわけではない、なにも拙者が君を捨てて、この地を立とうというわけもなし、また君にしてからが、拙者に捨てられたからといって、左様に泣き悲しむ筋もあるまい――拙者には君の感情の昂《たか》ぶっている理由がわからないのだ」
「そりゃ、おわかりにならないでしょう、あなた様なんぞは、立派な男一匹でいらっしゃるから、今日は信濃の有明、あすは飛騨の高山、どこへなり思い立ったところへ、思い立った時にいらっしゃる分には、誰に御遠慮もございますまいけれども、わたしなんぞは……わたしなんかは……そうは参りません……」
「拙者とて酔興で他国を流浪しているわけではない、行くも、とどまるも、それはおのおの生れついた身の運不運、如何《いかん》とも致し難い」
「如何とも致し難いですましていらっしゃられるのが羨《うらや》ましうございますわ、少しはわたしたちの身にもなってごらん下さいましな」
 福松はここでまた、さめざめと泣きました。
 兵馬は挨拶をつづくべき言葉を見出すに苦しんでいると、
「胡見沢《くるみざわ》の御前《ごぜん》があんなにおなりになる
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