に心を取られていたおいらだ――油断といえば油断だが、寝首を掻《か》かれたわけではなし、特にこの人は例外である。
 米友も、そういう頭が出来ているから、深くはそのことを気に病まないでいたが、解《げ》し難いのは、その面を撫で廻す指先に光る剃刀と、それから、なおよく見ると、その座右に置いてある櫛箱《くしばこ》です。それもこれも――この男がわざわざ持って来るはずはないと咎《とが》めるまでもなく、常日頃、米友がよく見慣れているお雪ちゃんの持物なのであります。
 いつのまにこの人は、これを持ち出したろう。閃々《せんせん》として波間をくぐる魚鱗のように、町々辻々の要所要所をくぐり抜けて血を吸って帰るこの人の癖は、米友に於てもよく心得たものだが――いかに潜入が得意の人とはいえ、はじめての室内へ入って来て、櫛箱と、剃刀と、それから、なおよく見給え、ちゃんと下剃《したぞり》を濡らすためのお湯まで汲みそろえてある。こういう細かい芸当までが、できるということは、あり得べからざることだ。
 ことに、うしろにふわりと羽織っている丹前だってそうだ。さきほどお雪ちゃんが、蒲団《ふとん》をのべようと言って、戸棚をあけた
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