ともかく、与八としては背面の悪女は悪女としての芸術を惜しみながら、自分は自分としての表現を、鑿と槌とに打込んでいる次第なのです。
与八がこの彫刻をはじめ出した前後から、不思議と子供たちが、この地点と、新しい台座と、作事小屋との近くに、一人|殖《ふ》え、二人殖えつつ集まり出して来ました。彼等は皆、ここによい遊び場を見つけたとして集まって来る。もとより藤原家の子供ではありません。
この附近を中心としての遠近の村里の子供が、ようやくこの地点へ群がり出すようになってきました。
その子供たちが、誰が教えるともなく、山から採って来た花卉《かき》を、与八のこしらえた新しい壇のまわりに植えはじめました。
現在、花の咲いている草もあり、木もあり、来春を待って花を持つべき種類のものもある。それを壇の周囲に植えることを楽しむようになりました。
そうして彼等はまたこの遊び場でおのおのの遊戯を持ち出して戯れ遊ぶ。ある時、女の子の一群が、お手玉をはじめる。
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こここめばら
さいたかどん
天神弓矢の松原どん
お江戸の花が
咲いたかどん
たつみやのお裏の
ばらぼたん
一枝おくれ吉野さん
一枝やるもの
花じゃもの
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与八は、そのお手玉唄を面白いと思いました。また或る時は、その前の地面をつき固めて光るほどに磨いた上で鞠《まり》をつく、あるものは向き合って掌《て》を打って唄う、ある時はまた羽根をつく、おはじきをする、拳《けん》をうつ、立業《たちわざ》では鬼ごっこをする、やがて竹馬に乗って来るものがある、凧《たこ》を飛ばしはじめる者がある、それが、やがて、与八の仕事場の前に群がり立つようになったのも自然です。
それから与八の彫刻ぶりに興味を持ち、その周囲に群がり、次第次第になじみが出来てくると、これはお松と共に、武州沢井で教育に着手した当時と同様の空気が、おのずから現われて来ました。
しかし、与八としては、お松ほどの教養があるわけではないから、進んでこれらの子供をどうしようの計画も起らないで、ただ彼等の為《な》すがままにして、彼等と共に遊ぶ心でいると、子供たちは、次第次第に、土地の自然そのものから和《やわ》らげてゆきます。
土地の自然そのものが、子供たちによって景気づけられてゆくのと合奏するように、子供たちの群《むれ》が群をよんで、人気の賑《にぎ》やかさが加わってゆくうちに、これが与八が註文したわけでもなく、お松のような指導者が存するわけではないのに、花卉木草《かきもくそう》を植え込んだ次に、手でするさまざまの供え物が集まって来るのが不思議でした。
例えば真白い木綿達磨《もめんだるま》、紙幟《かみのぼり》、かなかんぶつ、高燈籠《たかどうろう》といったようなものを誰が持ち来たすともなく持ち来たして押立てる。
無邪気で、こういうことをしている間に、そこは子供心で、おのずからの競争心といったようなものが出て来るのを認めます。甲の紙幟の評判がよいと、乙がそれに負けない気になって、それよりも優れたものを拵《こしら》えて来る、丙のかなかんぶつが喝采を博した時は、丁は竿の先に結びつけた高燈籠の色紙に自慢を見せて、高々と差しかざして来て押立てる――そうして、自然それが出来ない子供のうちには若干の羨望《せんぼう》もあるし、諦《あきら》めているのもあるし、肩身の狭い思いをしているらしいのもある。子供らの為すことのすべてに干渉しない与八も、そういう空気を見て取っては、知らず識《し》らずのうちに子供たちの無益な競争心が増長しつつ行くのを見ると共に、その競争に堪えられないでしおれる子供たちを見ると、その弊害の尠《すくな》からざることを思いやりました。
そこで与八は、なるほどお松さんが、子供を見ているうちに、どうしても教育をしなければならないとさとってこれを実行した心持がよくわかり、自分もそこでお松|直伝《じきでん》の教育をはじめることになりました。しかし、これはお松さん直伝の教育というよりも、与八さん独得の説教といった方がよいかも知れませぬ。
自分がコツコツと石像をきざみながら、板の間へ子供たちを呼び入れて、ねんごろに話を聞かせてやりました。
話といっても、与八のはお伽噺《とぎばなし》や武勇伝のようなものではなく、みんな、よく遊びながらも、おめぐみということを考えなくてはならねえ、第一父母のおめぐみ、それから目上の人のおめぐみ、国のおめぐみ、世の中のおめぐみ、神様仏様のおめぐみということを考えて、めったに人と争いをしてはならねえ……というようなことを、くどくどと教えるのですが、妙にそれが子供の頭に入るので、神妙に聞いています。
それからまた、与八は子供たちに、東妙和尚うつしの地蔵和讃などをも口うつしに教えました。
お松の教育は、手をとって学問芸術を教える正式の教育でしたけれども、与八のは、やっぱりお説教の一種です。こうして説教をやっているうちに、集まる子供たちの一々について視察して見ると、知恵の程度がまちまちであることを知りました。存外、年を食うて大きなずうたい[#「ずうたい」に傍点]をしているに拘らず、いろはのいの字も知らない鼻たらしがいたり、小さくても、年も少ないのにずいぶん過ぎた読書力を持っていたりするものもあり、概して平均した教育を持っていないことを知った与八は、説教だけではいけないと、今度はお松さん直伝の教育にとりかかりました。
この子供たちを教育することは、郁太郎を教育するのと兼ねてやることになりますから、与八としてはやっぱり日課を拡大しただけの程度で、特別に苦になるということもありません。
しかし、教育者そのもの、つまり先生でありお師匠さんであるところの、御当人の学力というものが甚《はなは》だ怪しいもので、師範学校を出たり、検定試験を受けたりして免状を持っているというわけではなし、お松さんのように遊芸|手跡《しゅせき》、本格の仕込みを受けているというわけではないから、教員資格としての与八は、大したものではありませんけれども、沢井の時の経験から、この子供たちを導くにはどうやら不足がない。
「いろは」を教え、「アイウエオ」を教え、「一二三」を教え、やがて手製の大算盤《おおそろばん》をもって、寄せ算、かけ算を教えはじめました。
子供たちは、文字を知り、数を覚えることの興味に吸い寄せられて来ました。子供たち自身よりは、驚異をもってうごめき出したのはその子供たちの家庭でした。日に一字ずつ覚えて帰る、お辞儀のしかたも覚えて帰るガキ共を見て顫《ふる》え上りました。
あの薄馬鹿のようなデカ者は、親切である上に先生が出来る! あそこへ子供をやって置けば間違いはない! 子供もよい癖がついた上に、読み書き、そろばんまでも教えて帰される!
彼等の親たちの大多数は無学でした。お触れのかきつけを読むことも、嫁の里へやる手紙を書くこともできないのが多いのですから、文字を有難がることは金玉《きんぎょく》のようです。その金玉を毎日一つずつ拾って帰る子供を見ると、それを拾って帰らす人の功徳《くどく》を驚異せずにはおられないのは当然。
こうして与八の家は、おのずから説教の壇上となり、教育の学校となって行きました。
そこで、親たちは、自分のガキ共を、山仕事、野良《のら》仕事の手伝いをさせる時間を割《さ》いても、与八のところへよこすようになりました。そうなると与八も時間の規律を立てた方がよいと思いまして、何の時に集まって、何の時まで何をして……という時間割を定めたのです。その次に時間割を等分するために、これも手製の一つの漏刻《ろうこく》を備えました。
瓢箪形《ひょうたんがた》の一方に砂を盛って、その一方が一方に満つるまでを一時《ひととき》として説教と読み書きそろばんの時間を区分しました。
そうして、なるべく少ない時間で多くの効果をあげるように、そうして他の多くの時間は、家々の稼業《かぎょう》のために使わせるようにしなければならないと思いやりました。しかし、雨の降った日などは、特別に時間を延長したりしてやることもあります。
あるお天気のよい日、今日はこれでおしまい――と子供たちを散校させると、ぞろぞろ外へ出て、以前の悪女塚の前の小径《こみち》を下ろうとした一隊が急に歩みを止めて、男の子供がけたたましく、
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ヘービモムカデモ
ドキアレ
オレハ鍛冶屋《かじや》ノ婿《むこ》ドンダ
槍モ刀モサシテイル
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と声高く歌い出しました。そうすると女の子も引きつづいて、
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ヘービモムカデモ
ドキアレ
オレハ鍛冶屋ノ嫁《よめ》ドンダ
槍モ刀モ持ッテイル
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こうして一時に喚《わめ》き出したかと思うと、その中から一人、火のつくように泣き出したのがあります。与八が飛んで出て見ると、
「おじさん、鶴どんが蛇に噛《か》まれた」
「まむし、まむしだ、こん畜生」
早くも悪太郎の一人は、当の敵を仕とめて竹の先に貫いて、与八の面前に差出したのは、銭形《ぜにがた》の怖るべき毒蛇であることを知ると、それに噛まれたという女の子を、与八はいきなり取っつかまえて、
「ど、どこを噛まれた、足か、足のここかい」
と言って、その創《きず》へいきなり自分の口を持って行って強く吸いました。強く吸い取ってからそれを吐き出し、子供をもろに抱いて宅の方へ駈け込んで、そこで手早く繃帯《ほうたい》を捲き、自分の口をすすぎ、手当をつくして、それから右の子供を背中に背負って急いで子供の家へ連れて行ってやりました。そうしてこの災難の次第を物語ってから、自分の注意の行届かなかったことをお詫《わ》びをすると、お詫びどころではござらない、こっちの災難を、おかげさまで手当が早かったからもう大丈夫、蝮《まむし》に食われた覚えは村の者にもいくらもあるが、どうしてこんなものではない、これは手当が早くて上手にやってもらったおかげだ――と言って、怪我をさせてもらって有難うと言わぬばかりに、親たちはお礼を言いました。
また、時として子供たちが学業中、急に腹痛、頭痛、めまい、立ちくらみを訴え出すと、与八は直ちに手当をし、容体をよく聞きただし、撫でたりさすったり、用意の草根木皮を煎《せん》じたり、つけたりして与えると、不思議によく治るのです。そうして親たちが迎えにでも来ようものなら、その容体によって、その子供たちの今後の摂生法などを教えてやるのです。打身、きり創のような時もその通りだし、心持が親切の上に、手当が上手だし、それに別段金をかけて薬品を買いととのえて置くというわけではないけれど、日頃心がけて、手近な草根木皮をとって、干したり乾かしたりして蓄えて置くものですから、急場の間《ま》に合います。これは一つは、与八が道庵先生に親炙《しんしゃ》している機会に、見よう見まねに習得した賜物《たまもの》と見なければなりません。
あの馬鹿みたようなデカ者は、先生もやれる上に、お医者さんも出来る!
と村人が再び驚異した時分には、ただこの先生でありお医者である人を、子供たちの専用にさせては置けない結果になりました。
この学校も繁昌するが、このお医者さんをまた流行《はや》らせずには置かない世の中になり行きます。
この間とても与八は、自分の彫刻と、説教と、教育と、医術とに専《もっぱ》らなるのみではありません、主家伊太夫のためにも、絶えず詰め切って蔭日向なく働き、またその最も有力なる相談役を委せられてもいました。
二十七
そのうちに、誰言うとなく、こんどお大尽様へ来たデカ者は、あれは只者ではござらねえ、まさしくあれは木喰五行上人《もくじきごぎょうしょうにん》のお生れかわりに相違ない、五行上人が生れかわって有野村のお大尽の邸へお出ましになった――
と、こういう噂《うわさ》が立ちました。
そうすると、善男善女《ぜんなんぜんにょ》が木喰五行上人の再来のお姿を拝みたいというので、与八のこの新屋へお詣
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