大菩薩峠
胆吹の巻
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)胆吹山《いぶきやま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)存外|素直《すなお》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「くさかんむり/毛」、第4水準2−86−4]
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         一

 宇治山田の米友は、山形雄偉なる胆吹山《いぶきやま》を後ろにして、しきりに木の株根《かぶね》を掘っています。
 その地点を見れば、まさしく胆吹山の南麓であって、その周囲を見れば荒野原、その一部分の雑木が斫《き》り倒され、榛莽荊棘《しんもうけいきょく》が刈り去られてある。そのうちのある一部分に向って鍬《くわ》を打卸しつつ、米友がひとり空々漠々として木の根を掘りつつあるのです。
 打込む鍬の音が、こだまを返すほど森閑たるところで、ひとり精根を株根に打込んで、側目《わきめ》もふらず稼《かせ》いでいるのは、この木の株根に執着があるわけではなく、こうして幾つもの株根を掘り起すことの目的は、この土地を開墾する、つまりあらく[#「あらく」に傍点]を切るための労力でなくてほかに理由のあるはずはありません。
 米友が胆吹山の下で開墾事業をはじめた。
 これは、これだけの図を見れば驚異にも価することに相違ないが、筋道をたずねてみれば甚《はなは》だ自然なものがあるのです。それは後にわかるとして、こうして米友が一心不乱にあらく[#「あらく」に傍点]を切っているとき、
「米友さん――」
 そこへ不意に後ろの林から現われたのは、手拭を姉《あね》さん被《かぶ》りにして、目籠《めかご》の中へ何か野菜類を入れたのを小脇にして、そうしてニッコリ笑って呼びかけたのはお雪ちゃんでした。
「御精が出ますね」
「うん」
 米友も鍬を休めていると、お雪ちゃんはだんだん近寄って来て、
「少しお休みなさい」
「どーれ」
と言って、米友は鍬を投げ捨てて、まだ掘り起さない掛けごろの一つの木株へどっかと腰をおろしたが、さて、こういう場合に、抜かりなく、間《あい》のくさびにもなり、心身疲労の慰藉ともなるべき――アメリカインデアン伝来の火附草をとってまず一服という手先の芸当が米友にはできません。腰を卸したまま、両手を膝に置いて、猿のような眼をみはって、お雪ちゃんの面《かお》を見つめたままでいますと、
「友さん、一ついかが」
と言って、お雪ちゃんが目籠の中から、珊瑚《さんご》の紅《くれない》のような柿の実を一つ取り出して、米友に与えました。
「有難う」
 米友は、腰にさしはさんでいた手拭を引出して、いまお雪ちゃんから与えられた珊瑚のような柿の実を、一ぺん通り見込んでから、ガブリとかぶりついて、歯をあてるとガリガリかじり立てました。
「甘《あま》いでしょう」
「甘めえ」
「もう一つあげましょう」
「有難う」
 お雪ちゃんは、まだ幾つも目籠の中に忍ばせているらしい。それを一度に幾つかを与えては、当座の口へ持って行く手順に困るだろうと心配して、わざわざ一つずつ目籠から出しては米友に与えるものらしい。
「むいて上げましょうか」
「いいよ、いいよ」
 お雪ちゃんは摘草用《つみくさよう》の切出しを目籠の中からさぐり出して、米友のために柿の実の皮を剥《む》いてやろうと好意を示すのを、米友はそれには及ばないと言いました。それはそうです、米友として、皮と肉との間のビタミンを惜しんでそうするわけではないが、この珊瑚のような小粒の柿の実を、お上品に皮を剥いたり、四ツ割りにしたりして、しとやかに口中へ運ばせるなんていうことはガラにないのです。米友に柿の実をあてがって置いて、お雪ちゃんが、
「友さん――お前に聞きたいと思っていましたが、あのお嬢様という方は、いったい、あれはどういう方なのですか」
 柿の実で買収して置いて、それから探訪の鎌をかけようというお雪ちゃんの策略でないことはわかっているし、米友とてもまた、昔噺《むかしばなし》の主人公と違って、柿の実や、握飯の一つや二つで買収される男ではないにきまっているが、つまりお雪ちゃんは、この機会に於て、このあたり静かな、そうして、後ろには山形雄偉なる胆吹山が傲然《ごうぜん》として見張りをしている、新開墾地の人無きところで、日頃から尋ねんと欲して尋ね得なかった腑《ふ》に落ちない条々を、この人によって解釈してみたいと念じていた希望が、偶然ここへ現われただけのものでしょう。
「うん――あれはね」
 米友の返事は存外|素直《すなお》に出ました。うっかりよけいな質問をかけて、ぴんしゃんハネつけられないのが見《め》っけものと、お雪ちゃんとしても、多少|危惧《きぐ》してかかったのでしょうけれども、それが存外物やわらかな手ごたえがあったものでしたから、まず安心していると、
「あれはね、あれは変人だよ」
と米友が、まず断案を頭から、たずねた人の真向《まっこう》へおろしてしまったには、お雪ちゃんも面喰いました。
「変人!」
 変人だか、常人だか、それを聞くのではない。そんな断案は、人に聞かなくても一見すれば誰でもわかることで、ちょっと附合ってみさえすれば、お嬢様という人が――ここにお嬢様と呼ぶのは、かの有野村のお銀様の代名詞であることは申すまでもありません――常人でないことだけは、わからずには置かないのですから、そんな無意味な断案を改めて米友から聞く必要はないのです。だが、相手を呼んで変人だという、この返答の主、すなわち宇治山田の米友がどれだけ常人に近いのだか、それを考えると多少はおかしくもなるのですが、これはこの返答の結論でも断案でもなくて、帰納《きのう》と演繹《えんえき》との論鋒を逆につかったものとして見れば、もう少し希望を残して聞いていないわけにはゆきません。
「うむ――変人だなあ、よっぽど変っているよ、あの娘もあれで、家はなかなか金持なんだという話だがなあ」
 それもわかってる、お銀様の背景に、偉大なる財閥ではない財力の権威があるということは、不破の関以来、お雪ちゃんもとうに心得ていることなのでした。
「え、え、それはわかってるのよ――お家は、甲斐の国で第一等のお金持だということもよくわかっております、わからないのはあの方の――そうですね、わからないと言えば、どこもここもみんな、わたしたちの頭ではわかりきれないところばっかりで、どこをどうとおたずねしていいかさえわからないのですけれど――」
「うむ、ありゃあね、心が傷ついているんだ。あれで、もとはいい娘だったんだってな、姿だってお前、いいだろう、あの通り姿もいいし、心持も鷹揚《おうよう》で、品格があって、女っぷりとしても、さすが大家に生れただけによ、上々の女っぷりだったんだそうだがな、面《かお》を傷つけられてから、それから心が傷ついてしまったんだよ」
「まア……」
 その時に、米友の返答がようやく、お雪ちゃんの壺にはまりそうになったのです。破題を先に、思いきり上げてしまったものですから、つづく調子の途惑いがしていたのを、ようやく糸にのりそうになったので、お雪ちゃんが喜んで、
「まア、おかわいそうにね」
「うむ、かわいそうと言えばかわいそうに違えねえかも知れねえが――かわいそうというよりは、我儘《わがまま》の分子が多いね、あれじゃあかわいそうだと思っても、本当に憫《あわれ》んでやる気にゃなれめえ」
「そうねえ」
「面が傷ついたからって、心まで傷つけるには及ばねえのさ、人間は面よりは心が大事だからなあ」
 ここに至ってせっかく壺におさまりそうなピントが、平凡至極の俗理に落ちてしまいました。
 人間は面よりな心が大事だからね――そのくらい見え透いたお世辞はないが、また醜婦に対する慰めの言葉として、これより以上、或いは以外の慰め言葉というものはない。米友ともあるべき者が、こんな平凡極まる俗理を言い出したのは、ただ、ほんの間投詞の一種類に過ぎないことは分っていますから、お雪ちゃんを失望せしめることはなく、
「どうして、あんなにお面にお怪我をなさったのでしょうか」
「うん、そりゃあね、火傷《やけど》をしたんだ、子供の時分に火ですっかり焼き立てたんだね、面を火で焼かれたというより、火の中からあの面を拾い出したんだね、それで五体は満足なんだが、あの面だけが――ところがねえ、お雪ちゃん、お前の前だけれども、女というものは、なんのかんのと言うけれど、つまるところは面だけが身上《しんしょう》じゃねえのかなあ――」
「どうして、米友さん、そんなことを聞くの」
「どうしてだって、女というやつはね、面が悪ければ、五体を棒に振って一生を台無しにしてしまわなけりゃならねえのか。面のよし悪《あ》しのほかに、女というものの身上はねえのかなあ。そうかといってまた面がよければいいで……楽あできねえよ」
「ホ、ホ、ホ」
とお雪ちゃんが、少しおかしくなって、
「それは、面の大事なことは、女だって、男だって――人間でなくったって、みんな大事じゃありませんか、あのお嬢様がお小さい時分に、そんなむごたらしいお怪我をなすったから、それならお前さんの言う通り、心も傷つくのはあたりまえじゃありませんか」
「ところがね、あのお嬢さんのは、ただ傷ついたんじゃねえ、傷ついてから、それから僻《ひが》んだんだ、僻んでから、それから、そうさなあ、呪《のろ》いだなあ、呪いになって、憎しみになって、復讐になって……今じゃ、手におえなくなっているというそもそもの起りが、火傷の怪我というのが偶然のあやまちの怪我じゃねえんだ、あの娘の継母《ままはは》という人が、自分の子に家をとらせてえがために、あのお嬢様を焼き殺そうとしたというのが、あの娘の呪いと、憎しみと、復讐のもとなんだ――もう今となっては、誰が何と言ったって、どうにも手がつけられねえ」
「ですけれども、なかなか親切で、大腹中《だいふくちゅう》で、そうして物わかりがよくて、どこといって……」
「それだそれだ、お気に入りさえすりゃあ、どこまでもよくしてくれるし、悪い段になると、人を取殺さずにゃ置かねえ。で、みんな腫物《はれもの》のように、おっかながっているが、おいらなんぞは、ちっとも怖《こわ》いと思わねえ」
「え、え、米友さんは、あのお嬢様のお気に入りのようですね、米友さんに限って、あのお嬢様の前でポンポン言っても、ちっとも気におかけなさらないようですけれど、ほかの者はみんなピリピリしているようです」
「なにも、おいらは気に入られようと思って、おべッかを使ってるわけじゃねえんだが、みんなお嬢様、お嬢様って鬼か蛇《じゃ》ででもあるように、おっかなびっくりしているのが、おかしくってたまらねえや――」
と、米友が得意になって、少しくせせら笑いの気持です。その時、お雪ちゃんが胆吹山の方を向いて、
「友さん、あそこへおいでのは、あれは、お嬢様じゃありませんか」
 お雪ちゃんが指したところの林の透間を米友が見ると、
「あっ!」
と舌を捲きました。
「こっちへおいでなさるようですね」
「うん」
「わたしは、お目にかからない方がいいでしょう、さよなら、米友さん」
「まあ、いいよ」
「でも、なんだか、わたし怖いわ」
「ナニ、怖いものか――」
 林の蔭から姿を現わしたのは、お銀様と見られた人の姿ばかりではありません――そのあとに一頭の駄馬を曳《ひ》いた馬子と、馬子に附添って、手代風《てだいふう》なのが一人、つまり、この二人一頭が、恐る恐るお銀様のあとを二丈ばかり間隔を置いてついて来る。お銀様は先に立って、儼然《げんぜん》として、例の覆面姿で歩みを運びながら、ゆらりゆらりとこちらへ向いて練って来るのです。一筋道ですから、それは当然、この米友があらく[#「あらく」に傍点]を切っている現場のところへ通りかかるに相違ありません。
 お雪ちゃんは隠れるともなしに、姿を後ろの林に隠してしまいました。
 米友は再び鍬《くわ》をとって、黙々として木の根起しにとりか
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