かります。
人家のない胆吹尾根《いぶきおね》の原ですから、近いようでも遠く、姿ははっきり認めてからでも、あの通り、ゆらりゆらりと練って来るものですから、この場へ来かかるまではかなりの時間を要します。
お雪ちゃんがこの場を外《はず》したのは、特にお銀様という人に好意が持てないわけではなし、悪意を芽ぐませているというわけでもないのですが、なんとなく気が置けて、不意に当面に立つことをいやがったのでしょう。
米友には、そうしてお銀様を避けなければならない心の引け目というものが少しもないから、引続いて木の根を掘りくずしに取りかかっているぶんのこと。
「友さん」
「何だい」
暫くあって、尋常一様の応対がはじまりました。いつしかお銀様は、米友の丹念な木の根掘りの前に立っている。米友は特に頭をもち上げないで、仕事の手をも休めないで、
「何か用かい」
と答えました。
米友としては、この人が来たために、特に仕事の手先まで休ませて敬意を表さなければならない引け目を感ずるということなく、また、さいぜんお雪ちゃんをあしらったように、ともかくも木の根へ腰を卸して応対するほどの必要を認めなかったのか、それとも、人の来る度毎に手を休めて株根へ腰をかけていた日には際限が無いとでも思ったのか、そのままで仕事をしていると、
「ずいぶん骨が折れるでしょう」
と、先方からお世辞を言いますと、
「なあーに」
米友は、鼻の先で返事をしながら、傍目《わきめ》もふらずに鍬を使っていました。
こういう働きぶりは、二宮尊徳に見られると非常に賞美される働きぶりなのですが、米友は、賞美されんがためにこうして働いているわけでもなく、お銀様もまた、使用人の勤惰《きんだ》を見るつもりでここへ来たのではありませんでした。
「友さん」
「何だえ」
「少し、お前に頼みたいことがある」
その時、米友がはじめて鍬の手を休め、腰をのばして、鍬の柄を腮《あご》のところへあてがって、まともにお銀様の方に立ち直りました。
「何だい、おいらに頼みてえというのは」
「ちょっと、お使に行ってもらいたい」
「ちぇッ……」
と米友が舌打ちをしました。
それは、頼みを聞いてやらないという表情ではありません。せっかく精を出して、こうして木の根を掘っているところへ小うるさいが、事と次第によっては、頼まれを聞いてやらない限りではないという好意を知っているお銀様は、米友の舌打ちに頓着なく、
「この人たちと一緒に、長浜というところまで行ってもらいたいと思います」
「長浜――」
「え――長浜というところへ両替《りょうがえ》に行って下さい、友さんはただ、用心について行ってくれさえすればいい、万事はこの人たちに頼んであるから」
この時まで、お銀様の後ろ影を踏まざること二丈ばかりの間隔を置いて、鞠躬《きっきゅう》としていた手代風のと馬子と、それに従う極めて従順なる一頭の駄馬とを、米友が流し目に見ました。
「つまり、おいらは、ただ用心棒だけについて行きゃいいんだな」
「そうです、この人たちに万事は頼んであります、こちらから、お金を持って行って、そうして、あちらで、そのお金を、ここの土地で使えるお金と取替えて来るだけの仕事なのです。ですけれども、なにしろお金のことだから、誰かしっかりした連れがあって欲しいと言いますから、そこで、友さんのことを考えつきました、用心に行ってやって下さいな」
「ああ、ああ、どっちへ廻ってもおいらは、用心棒に使われるように出来てるんだ――」
と米友は、やけのように言ったが、自ら軽蔑しているわけでもなく、頼まれることを拒絶するわけでもなく、鍬《くわ》を取り上げて、傍《かた》えの小流れのところへ行って手を洗い、そのついでに、ブルブルと面《かお》を二つばかり水で押撫で、それから腰にたばさんだ手拭を抜き取って無雑作《むぞうさ》に拭き立ててしまうと、もうそれで外行《よそゆき》の仕度万端が整ったのです。
一頭の駄馬を中にして、一人の馬子と、馬わきの手代風なのと、それに宇治山田の米友(例の杖槍は附物)が前後して、この一文字道を長浜街道の方へ行く。その後ろ姿をお銀様は、米友が今まで掘り起していた木の株根の傍に立ち尽して遠く遠く見送っておりました。
右の一行が山林|叢沢《そうたく》の蔭に見えなくなってしまうと、広い荒野原の開墾地に、お銀様ひとりだけの姿です。
この時分はちょうど真昼時なので、うらうらと小春日和が開墾地の土の臭いを煽《あお》るような日取りでしたけれど、お銀様がくるりと向き直って胆吹山に対し、ひたと向い合いになった時分に、胆吹山が遽《にわ》かに山翼をひろげて、お銀様に迫って来るのを覚えました。
二
そこでお銀様は、胆吹山の挑戦に向って答えるように、ゆらりゆらりと右の開墾場から山を押して進んで行きました。
以前、馬を曳いて来た一筋道とはちがって、今度は、あらく[#「あらく」に傍点]沿いの林をめぐって、めぐり尽すと、そこにまた一つの風景が展開されました。
山腹が、ここへ来るとまたカーヴのなだらか味を見せまして、雄偉なる胆吹の山容そのものの大観はさして動かないけれども、裾の趣は頓《とみ》に一変してきました。
右の三合目ばかりの麓は、一帯に松柏がこんもりと茂る風情、左へかけて屋の棟が林の中に幾つか点々として見える。そのつづき、弥高《いやたか》から姉川《あねがわ》の方へ流れる尾根を後ろにして宏大な屋敷あと、城跡と言った方がよいかもしれないほどの構えがあることを、明らかに見つけられるような地点に立ちました。
ゆらりゆらりと山を押しながら行くお銀様の目は、この宏大なる屋敷あと乃至《ないし》城あとに向って、足は爪先あがりに上って行くのであります。
その時、往手《ゆくて》の林の中から、いかにもあわただしく転がり出して、こけつまろびつ、こちらへ向って走り来《きた》る二つの物体がありました。
不意ではあったけれど、こちらは驚くほどのことはありません。まさしくこの地方に見る、あたりまえの山稼《やまかせ》ぎの二人の農夫で、仕事着を着て、籠を背負ったなり。これはこの地特有の副業、或いは正業としての有名な、胆吹山の薬草取りのこぼれであることは疑うべくもありません。ただ、ちょっと驚かされたのは、かく慌《あわただ》しく、こけつまろびつ走る二人のうちの一人が、何か胸に後生大事にかき抱きながら、ものに追われるもののように走り来る事の体《てい》が、穏かでないと見らるるばかりです。
いよいよ近づいて見ると、その二人は、額にも手にも、かすり創《きず》だらけで、着物もかなり破れ裂けている。妙な恐怖心と、はにかみをもって、お銀様に摺《す》れ違うところまで来たが、存外、歩調がゆるやかになって、その胸に後生大事に抱いたものに眼をくれながら、何かお銀様の好奇に訴えてもみたいようなしな[#「しな」に傍点]をして、
「いやはや、大変な目に逢っちまいました」
「どうしたのです」
とお銀様も、反問せざるを得ませんでした。
「鷲《わし》の子をとっつかまえましたよ、鷲の子を……」
「鷲の子を……」
その胸にかい抱いたところのものを提示するように言いましたから、お銀様が篤《とく》とそれを見直すと、それは、ボロボロの風呂敷包にくるんであるとはいえ、中で、生きて動く気色がむくむくと見えました。
「お見せなさい」
「この通りでがす」
彼等は、自慢半分に、風呂敷の結び目を少しはだけて見せると、まだ嘴《くちばし》の黄色くなりかけている一箇の猛禽雛が、幼いながらも猛然として、人を射るの眼を光らして、跳り立とうとしています。
「まあ、どこで捕りました」
「硯石《すずりいし》の崖のてっぺんで見つけたから、仕事を休んでとっつかまえましたが、いやはや、これがために一日つぶしてしまった上、命拾いでござんした。ごらんなさい、この通り二人とも、からだじゅう傷だらけ、高い崖から転がり落ちてすんでのことに生命《いのち》を粉にするところでござんしたよ」
「珍しいものですね」
「鷲の子なんぞは、なかなか捕まえられるもんじゃござんせん、親鳥にでも見つかろうものなら、今度はあの爪で上の方へ……命がけの仕事なんでがすが、でも、親鳥は留守でござんしてなあ」
「そうして、お前さんたち、せっかくつかまえたこの鳥を、これからどうしようというの」
「さあ――」
と二人が、お銀様から尋ねられて、改めて面《かお》を見合わせましたが、
「うちへ連れて行って飼って置きてえと思うんでがす」
「そうですか、餌《えさ》には何をやるつもり?」
と、お銀様から畳みかけられて、二人はまた面を見合わせてしまい、
「さあ――」
「何を食べさせて置きますか」
「そうだなあ――何をったって、こちとらの身分じゃ、特別のものをあてがうわけにもいきましねえから、粟《あわ》や稗《ひえ》を、わしらのうちとら並みに食べさせて、育ててみてえと思っとるでがすが」
「それは、いけません」
と、お銀様は二人の農夫の言い分を頭から蹴散らしたものだから、彼等も眼を白黒させ、
「いけませんかねえ」
「鷲という鳥は、粟や稗なんぞを食べやしません」
「そうですかね」
「そうだともさ」
「では、何を食べさせたらよろしうござんしょうね」
彼等はお銀様に向って憐みを乞うもののように教えを仰がんとする体《てい》です。彼等は、ただ、この猛禽の子を見つけ出したという興味と、それを捕えることの緊張さから、正当の職業である薬草取りの一日の業を抛擲《ほうてき》してしまって、生命《いのち》がけでこの一羽を巣の中から捕獲して来は来たものの、その前後の処分法については、あまり考慮をめぐらしていなかったのです。小鳥山鳥を捕まえて来たと同様に、当座は何でも有合せの雑穀をあてがって置き、それから然《しか》るべき買い手を見つけたら相当にいい値になるだろうの漫然たる予算だけであったのが、お銀様のために頭からそれを否定されたのですから狼狽《ろうばい》しました。
「生きたものでなければ食べやしません、鷲という鳥は、鳥の中の王様ですから」
「あ、左様でございましたなあ。生きた物、生きたものなら何でもよろしうございますか」
「生きたものといっても、トカゲやイナゴなんぞを食べさせてもダメですよ、生きたものの肉でなければ鷲の子は育ちません、さし当り兎なんぞがいいでしょう」
「兎の生きた肉を食べさせるのでございますか」
「ええ毎日――少し大きくなると、一匹や二匹では足りないでしょう」
「あてこともねえ、毎日、兎を二三匹も食いこまれちゃたまることでねえ」
と、抱いてた一人が、自分の身でも食いきられるかのように悲鳴をあげました。
「とてもやりきれた話でござらねえ」
二人は、この時、はじめて面《かお》を青くしてしまいました。
事実、この二人の者の身上で、一羽の鳥とはいえ禽類の王者の子を手飼いにしようとは、分に過ぎた扶持方《ふちかた》だと、この時、はじめて観念せざるを得なくなったに相違ありません。
「どうしような、欲しいという人はねえか知ら、誰かいい買い手を見つけて売ってしまうことだ」
「そうだ」
二人がこう言って吐息をつくのを、お銀様が受取って、
「お前さんたちが、相当の値段でゆずってくれるなら、わたしが買って上げてもようございます」
「え、奥様が買って下さる?」
「え、売っていいなら、わたしに譲って下さい」
「どうしような」
「でもなあ――せっかく命がけでつかまえて来たもんだからなあ」
彼等は売りたくもあるし、そうかと言って、生命《いのち》がけでつかまえて来たものを、あたり近所へも披露しないで、ここですげなく譲り渡してしまうことにも、多大の未練があるらしい。
その煮え切らない返答ぶりが、お銀様の興を損じたものか、お銀様は駄目を押すこともなにもしないで、二人を置去りにして、ゆらりゆらりと前へ進んでしまいました。
取残された二人、売ろうか売るまいか、思案に暮れて、まだ茫然と猛禽の子を抱いたまま、お銀様の行く後にぼんやりと立っている。お銀様は、ゆらりゆ
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