りに押しかけて来ました。そうして仏像をきざんでいる与八の姿を拝む者が続出して来たのには、当人の与八がわけがわからなくなってしまいました。
ある時、一人の婆さんが数珠《じゅず》をつまぐってやって来て、与八が板の間で説教をしているのを子供たちに混って聴聞《ちょうもん》していたが、それが済むと右の婆さんが、ずかずかと与八の直ぐ前まで進んで来て、数珠をさらさらとおしもんで、
「南無木喰五行上人さま、よくお出まし下さいました、わたくしは丸畑《まるばたけ》のトミでございますが、お見忘れはございますまい」
と言って、与八の前へ恭《うやうや》しく伺いを立てられたので、与八がホトホト当惑してしまい、
「わしは木喰五行上人なんてものではございません、わしは武州の沢井村の与八でございますよ」
と弁解すると、そのお婆さんはいっかな聞きいれないで、
「どういたしまして、あなた様は木喰五行上人様のお生れかわりに相違ござりません、わたくしは、あなたのうちの直ぐ隣りにいた切《きり》ふさのトミでございます、あなた様が先の世で四十五歳の時に木喰戒《もくじきかい》をおうけになって、国へお帰りになさいました時に、ちょうどこの子供さんたちと同じようにして、御仏像をおきざみになりながらのお説教をお聞き致しました、その時に書いて下さったお歌がこの通りでございます――
[#ここから2字下げ]
木喰の袈裟《けさ》も衣もむしろごも
着たり敷いたり寝たり起きたり
[#ここで字下げ終わり]
それからまたあなた様が前世でおきざみになった生塚《しょうづか》の婆さんのお木像がわたしの家にございます。全く今あなた様が地蔵様をきざんでおいでなさるところ、こうして村の子供たちを集めて有難い話を聞かせておいでなさるところ、もうどこからどこまで木喰上人様にそっくりでございます。わたくしもここにいる頑是《がんぜ》ない子供衆と同じ年頃でございました、永寿庵という村のお寺で、ちょうどこれと同じようにして上人さまの有難いお話を聞かせていただきました、そのお声までが、そっくりそのままでございます。それから木喰《もくじき》上人様が、日本廻国をなさって八十八歳の時、また一度村へお帰りになりました時もお目にかかりました。先の世でもお目にかかり、またこの世でもお目にかかる、何という有難いことでございましょう、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
と言って与八をまた伏して拝みましたので、いよいよ与八がもてあましてしまいました。
もとよりこっちは木喰でもなければ五行でもなし、上人様などとは以ての外、正真正銘の沢井村の与八に違いないのですが、先方がどうしても上人様だと信じ、そう決めてしまって拝むものだから、どうにも言い解く術《すべ》はありませんでした。正直な与八は何とも押すことができないのです。しかし、木喰五行というのは、ともかくもこのお婆さんと同じ郷里にあって、そうしてその上人様が世にも稀な生仏《いきぼとけ》のような徳の高い坊さんであったということは想像されるのです。
他国者の自分は、そんな珍しい人が、この近所から出ておいでなさるというようなことは聞いていなかったが、幸いこの機会に、このお婆さんにお聞き申して置いて有難いお手本にすることだ、というような気になりましたものですから、与八は、お婆さんをつかまえて、そのいわゆる木喰五行上人の行状に就いての昔話を聞くことになりました。
このお婆さんの語るところによると、木喰五行上人というのは、ここから南へ下って富士川を距《へだ》てた西八代郡《にしやつしろぐん》の丸畑《まるばたけ》というところの、貧しい百姓の二番目の息子として生れたということです。十四歳の時に村をあとに江戸へ出で、それからさまざまの憂《う》き艱難《かんなん》を経て、ある時は相模《さがみ》の大山石尊《おおやませきそん》に参籠《さんろう》し、そこで二十四の時に真言《しんごん》に就いて出家をとげ、それより諸国を修行し、或いは諸所の寺々の住職をし、廻国修行のうち四十五歳の時、常陸《ひたち》の国、木喰観海上人の弟子となり、木喰戒を継いで、それより四十年来の修行、およそ日本国、国々山々、岳々島々の修行を心がけ、ついに大願を成就《じょうじゅ》した。その廻国の途中到るところに寺を建て、堂を営み、自家独得の素朴なる仏体神体の彫刻を無数に遺して、九十三歳の高齢で大往生を遂げた、それが今いう木喰五行上人のことである。
木喰というのは、肉食をしない、すべての美食を断って単純な菜食に帰するのみではなく、すべての火食を避けた、菜食にしても、火にかけたものは食べることをしないのが即ち木喰である。四十五歳より一生の托鉢《たくはつ》の間、この木喰戒を守り、転々の一生を送ったのだが、与えられない時は、木の葉や草の葉で飢えを凌《しの》いでいた。最も好んで食べたのは蕎麦粉《そばこ》であったという。そして背には負仏《おいぼとけ》を納めた箱一つ、これは陸奥《みちのく》の端より佐渡ヶ島、特に佐渡ヶ島には法縁が豊かであったと見えて、幾多の堂宮、仏体、巻軸が残っている。佐渡を離れる時に、
[#ここから2字下げ]
四とせ経てけふ立ちそむる佐渡島を
いつきて見るやのりのともし火
[#ここで字下げ終わり]
という一首を、九品仏《くほんぶつ》の堂上の額に題して去った。
東海、東山、西国三十三番、大阪より播州に進み、作州に入って津山城下より下津井に下って船により、四国遍路を済ませて、伊予の大洲《おおす》から九州の佐賀の関に上陸、豊後路《ぶんごじ》を日向へ向い、そこの国分寺に伽藍《がらん》を建て、五智如来をきざんで勧請《かんじょう》し、それより大隅、薩摩、肥後、肥前と経巡《へめぐ》ってまたも日向の国分寺に戻り、それよりまた豊前、豊後を経て九州を離れて赤間ヶ関に上り、それからまた山陰、山陽の遍路がはじまり、再び四国八十八カ所、三百里の里程がこの旅僧を待っている。それが終ると、瀬戸内海を縫うてまた浪速《なにわ》へと志し、安治川《あじかわ》を上って京の伏見より江州を経て勢州に至り、尾張、三河、遠江《とおとうみ》、そこの狩宿に十王堂を建て、十王尊と奪衣婆《だつえば》を納め、駿河《するが》の随所に作物を止めて、興津《おきつ》から万沢を経て身延に詣でて見ると、そこは早や故郷の甲州である。身延の対岸の帯金村に四十五日を送った後に、故郷の丸畑へ帰ったのが寛政十二年十二月末で、上人の齢《よわい》はその時八十三歳であった。
故郷丸畑の永寿庵を修理して、その本尊の五智如来をきざみ、それが終るや、四国堂の建立《こんりゅう》と、八十八体仏の彫像、その大願を成就したが、それで故郷に大安住の終りを求めたわけではない。享和二年の末つ方、またも故郷を立ち出でて、再び故郷へは帰らざる旅に出た。
その後、信濃路を経て、越後の国に入る。信心深いこの国の人々は、上人の足を二カ年半も止めさせたということで、後に特志の人がその間にきざんだ仏像を見つけたものだけでも百五十体、なお幾多の隠れたるものが想像される。人間の齢《よわい》の頂上を祝《ことほ》ぐ八十八も旅のうちに過ぎ去って、その後の行蹟はわからない。わからないけれども、その年齢で、越後から清水越《しみずご》えか、或いは三国峠《みくにとうげ》をよじて上州の沼田へ出たであろうと想像され、そうして碓氷《うすい》を越え、道を甲州にとって甲府の金手町の教安寺というのに九十一歳の時にきざんだ七観音が残っているが、それからどこをどうしたか故郷へは帰らない、終ったところもわからない。けれども親戚のうちにお位牌がある、それには、
[#ここから1字下げ]
「文化七庚午年
円寂 木喰五行明満聖人品位
六月初五日」
[#ここで字下げ終わり]
これによると、九十三歳の円満|示寂《じじゃく》は疑うところがない。
与八は右の婆さんからこの物語を聞くと、ホロホロととめどもなく涙をこぼしてしまいました。そうして、こんどはアベコベにお婆さんを与八が伏し拝んでしまいました。そしてホロホロ泣きながら言うことには、
「ああ、ああ、そういう有難い上人さまが、この御近所にお生れになったということを、はじめてお聞き申しました、そのことでございます、旅のことでございます、巡礼のことでございます、日本廻国のことでござりました、ほんとうに、それが有難いお志でござりました、旅をしなければなりません、一生涯を旅に費して、八十、九十になっても安住の土地をお求めにならなかった、それが本当でございます。わしも本来は、その旅を志して出て来たのでございましたのに、今、こうして人様のおなさけに甘えて、いい気になっているのは悪うござりました、わしらは、わしらの罪亡ぼしに、やっぱり一生涯旅をし通さなければならないわけのものでございましたのに……」
と言って、与八は婆さんを伏し拝んでいるうちに、いよいよ涙がとめどもなく流れて来ました。
底本:「大菩薩峠16」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 九」筑摩書房
1976(昭和51)年6月20日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年1月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全21ページ中21ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング