なのでありました。その途中、はからずも、こんな奇禍に逢ってしまって、今まで血気盛りの若衆たちが、すっかり血の気を失って、生ける空のないのも道理です。
 彼等は、数珠《じゅず》つなぎになって、長浜へと引き立てられて行きました。
 米友はかくの如くしてこの場を外《はず》れ、また米友が同行の両替の番頭と馬子も、表の騒ぎよりは、米友のあと、つまり責任ある両替の馬のあとを追ってはせて行く方が急務ですから、それを追いかけたのが勿怪《もっけ》の幸いでありました。
 こうして、石田村の畷道《なわてみち》の活劇は大嵐のあとのように一通り済みましたが、一つ済まないのは、役人たちの手で水田の中へおっぽり込まれた、問題の長持の後始末です。
 なるほど、借用のお芝居の衣裳道具が入れてあったに相違なく、その蓋《ふた》が、遥か彼方《かなた》にけし飛んで、中身が無残にはみ出している。それもおもに女物ばかり入れてあったと見えて、初菊《はつぎく》のかんざしだの、みさお[#「みさお」に傍点]の打かけだのというのが、半分は水びたりになっている。あまりに無残な体《てい》ですけれども、誰も手を出すものがありません。へたに手を出して、一味ととうの残党ででもあるように嫌疑を受けてはたまったものでない。
 せっかくの衣裳道具がジリジリと水びたりになって行く無残な光景を、たまたま通りすごす人も、怖る怖る横目に見て、足音を忍ばせて通り過ぎるくらいですから、この長持もまた救われないものの一つでありました。
 ところが、この長持が突然、大きなあくび[#「あくび」に傍点]を一つやり出したことです。
「あーあ、ううん、あーあ」
 長持があくびをするということは曾《かつ》てあり得べきことではない、それが確かにあくびをしたのですから、まず田にしが驚いて蓋をしたというわけなんでしょう。そうするとつづいて、
「こいつは、たまらねえ」
 その長持の、初菊や、みさおの衣裳の中が、急にもぐもぐと劇《はげ》しく動いたかと見ると、いきなり、その中から這《は》い出したものがありました。
「あ! こいつは、たまらねえ、こういうこととは知らなかった」
 あわてて長持の中から這い出したのはいいが、這い出したところが水田《みずた》です。その水田の中へ手をついたものだから、手が没入する、足を入れると足が没入する、後ろへひっくり返ると背中、前へのめると面《かお》から胸いっぱい忽《たちま》ち泥だらけとなって、七顛八倒《しちてんばっとう》する有様は見られたものではありません。
 見られたものでないからといって、この際、通りかかった人は、それを見過すわけにはゆかないでしょう。知った面であろうとなかろうと、こうして田の中で七顛八倒している人を見れば、そのまま見過しはできない道理ですけれども、あいにく、その時は人通りがありませんでした。
 人通りがあってもなくても、知る人は知る、ここにひとり七顛八倒して、お汁粉の化け物のようになって、ひとり泥試合を演じつつある御当人とては、当時、下谷の長者町で有名な、十八文の道庵先生その人であります。
「ああ深《ふけ》え! こいつはたまらねえ」
 一方の足を抜けば、また一方の足――足が抜けたかと思うと、諸手《もろて》がそれよりも深くハマリ込んでいる。
 かわいそうにわが道庵先生は、ぬきさしのならない深田地獄へ没入の身となりました。
 そもそも道庵先生たるべき身が、どうしてこうも無残な運命にでくわしたかと言えば、それにはそれで幾分同情すべき理由もあるのでした。
 あの芝居の楽屋で、この長持の中へ酔倒して、その上へ突然、フワリと薄物が一枚落ちかかったものですから、誰にも気づかれないで、いい心持に寝こんでしまっていたが、程経て、千秋楽《せんしゅうらく》の柝《き》が入り、舞台楽屋万端取りかたづけの物音に目が醒《さ》めないというはずはないから、そうして長持も当然、納むべきものを納め、蓋をすべきは蓋をする運命とならなければならない瞬間に、この先生のいたずら心が勃発したと見らるべき理由があるのです。
「こいつは、あとの幕が面白くなりそうだ、ここにもう暫くこうして納まり込んでいると、知らず識《し》らず次の幕へかつぎ出される、さあ、その出場が問題だ、一番運を天に任せてみてやれ」
という気に道庵がなり出して、そのままわざと息を殺しているうちに、相当の衣裳類が上から積込まれ、蓋をされて、道庵もろともに楽屋から担ぎ出された成行きであろうことは、充分察せられる。
 しかし、それからがまた問題で、いかに道庵であるとはいえ、衣裳類を上から積み重ねられた上に蓋をされたんでは、相当時間の後には窒息に陥る憂いがあるではないか。しかしそこは、またお手前物で、その辺の危険に思い及ばぬはずはない。といって、江州柏原駅にあらかじめ道庵を入れて運ぶために備えつけられていた長持が無い限り、道庵の呼吸のために安全弁が特設されてあろうはずもないから、いたずら心はいたずら心として、中に納まった道庵は蓋をされる瞬間に、そこは心得て、なんらか空気流入の調節方法を講じて置いたものと見なければならぬ。
 こうして内心大満悦で、予想を許されざる次の舞台まで舁《かつ》がれて行って、そこで底を割って、やんやと大当りを取ってやろうという趣向が、中で揺られている間に、またいい心持になって、おぞましくもぐっすりと寝込んでしまったのが運の尽き?
 幾時かの後、はじめて眼がさめて見ると、この体《てい》たらくである。
 そのくらいだから道庵は、ここが石田村であるか、土田村であるか、そんなことは知らない。また、たった今の先まで威勢よく、自分というものが中に忍んでいるということは知らずに、手揃いで舁ぎ込んで来た若衆の面《かお》ぶれも知らなければ、事の重大な成行きなんぞも知ろうはずはない。
 そこで、ごらんの通り、深田地獄の中でこけつまろびつ――気の毒といえば気の毒ですけれども、なあに本来当人酔興の至りで、自業自得というものです。癖になるから、ああしといて、さんざんに笑っておやりなさい。

         二十四

 お銀様の実家――すなわち甲州有野村の藤原家の広い屋敷内の一角で、与八としての新しい仕事が一つはじまりました。
 それは、お銀様の拵《こしら》えた悪女塚を取崩しにかかっているということです。
 これが非常に危険性を帯びた仕事であるということは、仕事そのものが必ずしも危険性を帯びているというわけではない、それがために後日捲き起さるべき風雲を予想してみると、知れる限りの人が誰ひとりおぞけをふるわないものはありません。
 あの暴女王が、旅に立つ前に残して置いた記念事業です。それにさわることすら怖れられていたものを、与八という風来の馬鹿みたような男が、平気な面をして、順々と取崩しにかかっているのですから、それを見たほどの者が、ピリピリとふるえ出したのです。
 もちろん、これは父としての伊太夫が命令を下して、そうさせている仕事でないことは明らかであります。親権者としての父の伊太夫が、この横暴なひとり娘に対して権威の極めて薄いことを知っている者にとっては、たとい暴女王の不在中とはいえ、それを取壊さしめて、その帰って来た後の風雲を予期しないはずはない。それだから父としては、むしろ、それに触れることを他に向って差止めようとも、それに一指を加えろなんぞと指図をするはずはないのです。そのくらいなら、最初こんなものを建設するその時に差押えてしまっているでしょう。
 唯一の親権者たる人でさえ、それに触るることを怖れているものに対し、それ以外に命令を下して、この馬鹿みたような男をそそのかす人があるとも思われない。よしあったとしても、風来の与八として、それを用うべくも従うべくもあろうはずはないのです。
 してみれば、これは当然――当の暴女王の直接命令でない限り、事に従事している者の無知がさせる業でなければならない――与八は馬鹿みたような男だから、その辺にいっこう無頓着で、こういう暴挙に平気で取りかかっているものらしい。
 だが、それにしても親権者たる伊太夫の黙認がない限り、こんな仕事が平然として続けて行けるべきはずはないのですから、伊太夫も命令こそ下さない、許諾《きょだく》こそ与えないけれども、与八の為《な》すことに相当の諒解を持っていることには相違ありますまい。
 もちろん、その通りです――ある晩のこと、例の如く伊太夫は、与八が米を搗《つ》きながら郁太郎《いくたろう》に文字を教えている納屋《なや》の中へ話しに来たついでに、こういうことを言いました――
「なア、与八どん、こないだの話、この郁太郎殿を、わしが家の養子にして、お前さんを後見にしたいと言うたあの話、あれはお前から承知とも不承知とも、まだ返事を聞かないが、ともかく、お前がこうして安心してわしのところに腰を据えていてくれることは、とりも直さずわしの言ったことに同意ができないまでも、わしの心中を諒解してくれていることと思って、わしは嬉しく思っておるがな、どうだ、与八どん、居ついてくれる気持があってもなくても、こうして納屋にばかり燻《くす》ぶっていてもつまるまい、わしがこの屋敷のうちのどこでもいいから、お前の好みのところを選定して、一軒別に家を建てなさい、つまり、郁太郎とお前と新屋《しんや》を一つ建ててみる気はないかね」
 伊太夫がこう言い出した時に、与八も少し乗り気になったものと見えて、
「それは有難い思召《おぼしめ》しでございます。先日の有難《ありがて》えお言葉にてえして、わしも、どういうふうに返事を申し上げていいかわからねえので、何とも申し上げねえのでございますが、どうも旦那の思召しが有難え上に、なんだか旦那のお胸のうちを考えてみますと、わしもひとりでに涙がこぼれるような気になりますでなあ、ああおっしゃられなくても、急にこのお屋敷をお暇《いとま》申す気にはなれねえでいるところでございます、新屋を一つ建てろとおっしゃって下さることは、直ぐにここで御返事ができます、どうかそうさせていただくことに願《ねげ》えます。なに、郁坊とわしの二人で臥起《ねお》きをする場所だけあればいいのでございます、いつまでもこうして、納屋に居候をさせていたでえておいてもいいのでございますが、納屋はまた納屋で用向があるでございますから、人間は人間として狭くとも一軒別にあてがっていただけば、こんな有難えことはございませぬ」
「うむ、よく言ってくれた、じゃあ早速、今日からでも、お前の好きなところへ地取りをしなさい、どこでもいい、そうして材木はいくらでも出してやる。大工も左官も、みんなあてがってやる、大きくとも小さくとも、お前の好きなように地取りをして、絵図面を拵えてごらん」
「はい、どこまでも有難えことでございます――それなら早速、明日からでもそういうことにお願え申すことに致しやして、それに就きまして、旦那様、その上に一つお願えがあるでございますが……」
「改まってお願いのなんのと言うがものはなかろう、言ってごらん」
「今、旦那様が好きなところへ地取りをしろとおっしゃいましたが、その地取りについて、わしらに望みがあるでございます」
「望みがあるならなお結構、その望みのところを取りなさい」
「では、お願え申しますが、あの旅においでになったお嬢様とやらが建ててお残しなすった、あの悪女塚というところの地面を、わしにお借り申させていただきてえんでございます」
「えッ」
と、その時に、伊太夫が思わず眼をみはったくらいでした。
「与八」
「はい」
「わしはな、お前にドコでも望めと言ったが、あれだけは勘弁してくれないか」
「いけませんか」
「いけない理窟はないのだが、あれは遠慮した方がよい、第一わしが迷惑するより、あんなところを選ぶお前が迷惑するのが眼に見えるのだ」
「旦那様――わしの方の迷惑なんぞは、ちっともかまいませんが、わしはお屋敷のうちのどこよりも、あそこが好きなのでございます、あそこへ新屋を建てさせていただきたいのでございます」
「それは困るな」
「ねえ旦
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