の食い上げじゃによって、これより宇治と勢多とに陣所を構え、或いは案山子《かかし》を立て、或いは偽物をつくり、さんざんにかけ悩まそうと存ずる――それと聞いて風を食らった道庵、胆吹山へと道を枉《ま》げたのは我々の気勢に怖れをなしたか、それとも別に軍略を立てたか、なかなか以て油断がなり申さぬ、おのおのの御意見が承りたい」
それについて三ぴん連が、みな見るところのヨタを並べますと、最後に安直が大気取りに気取ってしゃしゃり出で、
「昔からの戦争で、胆吹へ逃げ込んで助かった例《ためし》ありゃへんがな。十八文やかて、もう袋の鼠やさかい、石田はん、小西はんなみに、生捕りしやはって縄つけ、大阪三界引廻して、首ハネるまでのこっちゃさかい――阪者《さかもん》の手並、どんなもんや、思い知ったかやい、ちゃア」
と言って勇気を示したものですから、一座がまた勇みをなし、村雨女史までが、
「直《なお》さんに会っちゃかなわない」
と言って讃辞を捧げました。
直さんに会っちゃかなわないというのは、どういう意味だかよくわからない。おそらく村雨女史のお座なりのおてんたらではあろうが、しかしこの大阪仕込みの勇者に会っては、宮本武蔵でも、鎮西《ちんぜい》八郎でも一たまりもない、まして道庵先生の如きに於ては、直さんに会っちゃ、ほんとうにかなわないという賞讃をこめたのかも知れません。
そうすると、プロ亀が、
「安直先生のように、そう調子を高くおっしゃっては、一般人に対して御損じゃございませんか」
「わて阪者やかて、みみっちいことばかり考えていやへん、損やかて、得やかて、大御所気取りしやはって、関東から攻め上りなはる十八文はん向うに廻して渡り合うは、きれもん、この安直のほかにありゃへんがな。三ぴんはん、しっかと頼んまっせ、ちゃア」
「オット合点《がってん》」
そこで、この三ぴんの円卓会議が胆吹山征伐進軍の軍議となり、評議が熟すると、いざ出陣ということになりました。
いざ出陣となると、三ぴんの連中を前にして、安直先生がおびただしく大根おろしをかきおろしはじめました。どういうつもりか、一心不乱に大根おろしをかきおろして、とうとう桶に十三杯もかきおろしてしまいました。
それを見ていた三ぴん一同が、その精力の非凡なるに感心し、この分でかきおろせば一年に六七千本の大根をかきおろすことができるだろうと眼をみはって、
「いったいどうしてそんなに、大根おろしをかきおろしなさるのです」
安直が抜からぬ面《かお》をして、答えて言うことには、
「胆吹の山には昔から、大蛇《おろち》がすんでいやはるさかい、毒気に触れるとどもならんによって、この大根おろしよばれると毒下しになりまんがな。それに胆吹の百草たらいうて、薬草がたんとたんとござりましてな、その薬草の中には毒草もたんとたんとござりますによってな、相手は十八文のお医者はん、いつ、わてらに、その毒草を製して飲ますことやらわからへんがな。そないな時にな、その大根おろしのかきおろしたあん[#「たあん」に傍点]と食べておきますとな、毒消しになりますさかい、ちゃア」
それを聞いて一同がアッと感心しました。プロ亀の如きは、
「さすがに安直先生、お考えが深い、お調子が高い!」
そうすると、村雨女史が、またおてんたらを言いました、
「直さんに会っちゃかなわない」
しかしまた、老功なる、みその浦なめ六は心配しました。
「それはそうとして、この十三樽の大根おろしのかきおろしを持ち運ぶのが容易なことじゃござらんてな、誰がこれを胆吹山まで運搬するこっちゃ」
「そないなこと、いっこう苦になりゃへん、あの山の山元にはキャアゾウ[#「キャアゾウ」に傍点]たらいう親分はんがいやはって、そないな大根おろしのかきおろしを、なんぼでも背負いたがっていなはるさかい」
つまり、胆吹山の山元には、キャアゾウ[#「キャアゾウ」に傍点]という親分がいて、こういう大根おろしを幾駄でも、嬉しがって負いたがっているということになる。
これを聞いて、三ぴん一同が、いよいよ安直の用意周到なるのに敬服しました。
十六
そういうこととは露知らぬ道庵先生は、お角さんから差廻された米友代りの一僕、庄公を召しつれて、ほくほくと柏原の宿《しゅく》を通りかかりました。
胆吹へ登るものとすれば、ことにお銀様や米友が植民地を構えた上平寺の方面から登るとすれば、関ヶ原からでは、この本道へ出ないで、小関から北国街道へ出るのが順ですけれども、胆吹へ登るものが必ずしもその道をとらなければならないという約束はなく、柏原からでも、長岡からでも、幾多の登山路はあるのです。春照村《しゅんしょうむら》の上野からする登山本路をとるとすれば、ここへ出るのも決して脱線ではありませんが、とにかく、道庵が一僕を召連れて、ほくほくとこの柏原の宿はずれを歩いている途端に、大へんなものに出くわしてしまいました。さては草津を要していた三ぴん連の先陣が、早くもここへ廻ったか――そうではない、後ろから追いかけて来る人の声――
「サアサア、みないじゃござい、みないじゃござい、コレコレ作兵《さくひょう》ヤイ、太郎十、どうでやどうでや、よべから役当てて置きよるに、何していよるぞ、さあさあ、いかまいか、いかまいか」
「ヤレ、コリャ、いんま、いかずいかずと言いよるに、おこずるな、おこずるな」
「ええ、はようやらまいか、その頭どうじゃ」
「はらの煮える、いんま幕があいて、みがとが出よるところじゃに、誰なと代りに出さずと思うても、おぞい奴等じゃ、どやつもこやつも、今こまいとぬかしよる」
こう言って、道庵のあとから駈けつけて来るものがありましたから、道庵がそれをふり返って見ると、ところの男、もう一人の女の手を引きずって駈けて来る。様子が変だから、なおよく見ると女の鬘《かつら》をかぶって、顔はところまだらのおしろいをベタベタとつけている在郷衆だ。そのあとから弥次馬がワイワイ駈けて来る。その体を見ると道庵先生が早くもさとって、
「やあ、来たな、どこぞ近いところに素人《しろうと》の芝居があるぞ、こいつぁ一きり見ざあなるめえ」
と言って、忽《たちま》ちその輩《やから》にくっついて駈け出しました。
ほどなく、鎮守の社へいって見ると、歌舞伎の柱を押立てて緞帳《どんちょう》をつり、まわりへ蓆《むしろ》と葭簾《よしず》を張りめぐらしてある。木戸は取らない、野天の公開ですから道庵もうれしがって、見物の中へ割込んで、早くも相当の席を占めてしまいました。
まもなく、場の内外は立錐《りっすい》の余地もない景気、やがてカッチカッチと拍子木が鳴る。
「東西東西」
手拍子パチパチ。
「御酒二升、目《め》ざし鰯《いわし》十連、浅畑村|若衆《わかいしゅ》より馬持ちの田子衛門へ下さる」
手拍子パチパチ。
「そば粉三袋、牛蒡《ごぼう》十|把《ぱ》、六はら村の長徳寺様より西町の芋七へ下さる」
手拍子パチパチ。
「半紙十帖、煮付物一重、三太郎後家様より長松へ下さる」
手拍子パチパチ。
「榾《ほた》三束、蝋燭《ろうそく》二十梃、わき本陣様より博労《ばくろう》の権《ごん》の衛門《えもん》に下さる」
手拍子パチパチ。
拍子木カチカチ。
「東西東西、このところ太功記十段目尼ヶ崎の段、始まりさよカチカチ」
これを聞くと道庵が無性《むしょう》に嬉しくなって、
「ありがてえ、これだから旅は止められねえ」
十七
道庵先生は、この太功記十段目を極めて神妙に見ておりました。道庵先生とても必ずしも脱線とまぜっかえしを本業としているわけではなく、衆と共に楽しむ場合には、強《し》いてことを好んで多数の静粛を破るようなことはしません。
そうしているうちに、この一座が、太功記十段目一幕をとうとう本行通りこなしてのけてしまったのには、さすがの道庵先生が舌を捲きました。案外の上出来、それに上方《かみがた》に近いせいか、第一、チョボが確かだし、一座の役者の仕草《しぐさ》も台詞《せりふ》も一応、格に入っておりました。
道庵は感心の余り、ひとつ賞《ほ》めてやりたいものだという気になりました。もう幕が下りてから賞めたところで仕方がない、まあ、この次の幕に近江源氏があるらしいから、一番江戸ッ児張りにうんと賞め言葉を投げつけてやろうと意気込んでいたが、幕間《まくあい》がかなり長い上に、道庵もちょっと小便を催してきましたから、座席のところを庄公に頼んで置いて、人波を分けて、便所の方へと出かけて行ったのですが――その帰り途のことです、葭簾張《よしずば》りのスキ間から楽屋が丸見えだもんですから、道庵が覘《のぞ》き込むというと、そこで在郷の役者連が衣裳、かつらの真最中で、それをお師匠番が周旋する、床山《とこやま》がかけ廻る、その光景はかなり物珍しい見物《みもの》でした。それを見ると道庵先生がムラムラと病気が萌《きざ》したのは、どうもやむを得ないことです。今まで見物の最中とても、瓢箪《ひょうたん》に仕込んで来た養老の美酒をチビリチビリとやっていたのですから、かなり廻っているところへ、こうして物珍しい楽屋裏を見せつけられたのでは腹の虫がおさまりっこはないのです。
そこで道庵先生が、ちょっと人混みの中へ姿を隠したかと思うと、今坂餅《いまさかもち》を三|蒸籠《せいろう》ばかり出店商人に持たせて、いけしゃあしゃあとして再び楽屋口へ乗込んで来ました。そうして世話役に向って言うことには、
「わしゃあ江戸者だがね、上方見物の途中なんだがね、はからずこの地へ来て皆さんの芸術を見せていただきやしたが、正直感心いたしやした。どうして本格でげすよ、これなら三都の大歌舞伎へ出したって、ちっとも恥かしいことはねえ。失礼ながら皆さんが、これほどにお出来なさるたあ気がつかなかった。わしも若い時ゃ芝居がでえすきでね、大白猿《だいはくえん》や鼻高《はなたか》盛んの頃には、薬箱を質《しち》に置いても出かけたもんだがね、近頃、江戸も役者の粒がぐっと落ちやした。役者の粒が落ちたんじゃねえ、こっちの眼が肥えたんだという説もあるが、そりゃどっちでもかまわねえが、近頃ぁとんと夢中になりきれるほどの役者が出ねえんでね。だから、一分線香や俄《にわ》か道化師の方が罪がなくて、おもしれえくれえのものなんだが、今日まあこうして御縁があって、皆さんの芝居を拝見させていただきますてえと、どうして、すっかり本格だあね。第一、チョボの太夫さんが確かなもんだ。役者衆だってその通り。それで実ぁ、内心、はじめのうちはね、これほどはやるめえと甘く見てかかったのが拙者の眼の誤り、あんまり皆さんの芸術に感心したもんだから、お礼とお詫《わ》びをかねて、お近づきに罷《まか》り出たというようなわけなんでげす。これゃあ、ほんのお印《しるし》だが、どうか皆さんでお茶うけに召上っていただきてえ。わしゃ、江戸の下谷の長者町で道庵といえば知っている人は誰でも知っている、知らねえものは誰でも知らねえ、至極お人よしの十八文でげす、どうかよろしく」
こう言って、出店商人に持たせた三蒸籠の今坂を、恭《うやうや》しく楽屋一党へ向けて差出したものですから、楽屋一同が面喰ってしまって、一度は呆気《あっけ》にとられましたけれども、その申し出でたところを一応思い直してみると筋が通っている。
誰も賞《ほ》められて悪い気持のするものはない、まして素人《しろうと》芝居の一幕も打って見せようという善人たちですから、村のかみさん、娘さんがお世辞にも、あそこがよかったと言ってくれれば有頂天《うちょうてん》になり得る善人たちである。ところがここに現われた旅の人というのは、自分から名乗るところによると、正銘の江戸の本場者で、しかも三都名優の舞台らしい舞台を若い時から見飽きているような口吻《くちぶり》でもある。その本場の江戸ッ児が思いがけなくこう言って、わざわざみやげ物まで持って賞めに来てくれたのだから、楽屋一党が喜ばずにはおられない道理です。
まず、チョボ語りの太夫さんの源五
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