って、その凍った流れが滝になって、この世界の地上のいちばん高いところから、どうっと氷の大洪水が地上いっぱいに十重《とえ》も二十重《はたえ》も取りまいて、人畜は言わでものこと、山に棲《す》む獣も、海に棲む魚介も、草木も、芽生えから卵に至るまで、生きとし生けるものの種が、すっかり氷に張りつめられて絶滅してしまう。わしは信州にいる時にそういう夢を見たが、醒《さ》めて見ると山が火を噴き出したといって人が騒ぎ出した、火と水との相違だが、いずれ天然の呼吸の加減で、人間というやつが種切れになる時があるにはあると思っているよ」
「そうですね、夢にだけはそんな時があるかも知れないが、まあ、この世の中をごらんなさい、眼の見えない人は格別、わたしたちのような眼で見ると、まだまだ地面は若々しく、人間には油がありますね。こうして地面と人間とが生きて見せびらかしている間は、いかに絶滅論者でも、自分の手で死なない限り、死ぬことさえが儘《まま》にはなりますまい。御退屈でも、あなたの想像するその絶滅の日の来るまで、そうしてお待ちなさい」
「堪《たま》らないな、いつその日が来るんだ、その絶滅の日が来るまでは、ここを出られないのかい」
「それがよろしうございます、気永く、そうして絶滅の日の来るのを待っておいでなさい」
「堪らないよ、退屈するなあ、もう少し広いところへ出してくれないか」
「いけません、あなたはそうしていらっしゃるのがいちばん楽なんです」
「冗談《じょうだん》じゃない、お為ごかしで監禁されてしまったんじゃたまらない、誰がいったい、拙者をこんなところへ入れたのだ」
「それは、わたしが封じ込んだのです」
「ははあ、笑止千万、理想の国土だの、安楽の王土だの、人を無条件に許すの許さないのという奴が、男一匹を捕えて監禁束縛して置かなければ安心ができない――力の哲学の自殺だね」
「ちょうど、絶滅の論者が、自分の身を絶滅しきれないで迷っているのと同じようなものですね、ホホホホホ」
「お銀さん、黙ってお前さんの理窟だけを聞いていると、お前さんはどうしても則天武后以上の女傑のようだが、理窟は理窟として、現在拙者は、こうして一室に監禁されているのがたまらないな、こんな、日の目の見えないところから解放してやってくれてはどうです、こんな座敷牢へ押込めて置かなくても、広い世界へ野放しにしてみたところで、人間のしでかす事なんぞは、タカの知れたものじゃありませんか」
「お言葉ですが、あなたばっかりはいけません、あなたを解放してあげることは、為めによくありません」
「どうして」
「どうしてったって、こういう人間に限って、決して日の目のあたるところへ出してはならないのです」
「それは残酷ですね」
「残酷なんて言葉を、あなたも知っていらっしゃるのですか」
「男一匹を、こうして日の目の当らぬところへ永久に閉じ込めて置くなんぞは、残酷でなくて何です」
「閉じ込められて置かれる人の残酷さ加減より、そういう人を解放することの危険さから生ずる残酷の方が幾層倍も怖ろしいから、それでわたしの計らいで、当分ここへ封じ込めて置くのが、どうして悪いのですか」
「悪いな――人の自由を奪うというのは何よりも悪い、ましてだ、自由と解放とのために、新理想の楽土王国を築こうなんぞという女性が、あべこべに人を捉えて、幽囚の身にするなんぞは、矛盾も甚《はなはだ》しい、解放して下さい」
「いけません――あなたをここから出してあげることはいけません、もし何か御用がある節は、こちらから行ってあげて、少しも不自由はおさせ申しませんから、おっしゃってみて下さい」
「いやはや」
「何か御要求はありませんか」
「それはあるさ、生きている以上は」
「何ですか」
「生きているために必要な要求ぐらいは、聞かなくたって分りそうなものだ」
「米ですか」
「は、は、は」
「肉ですか」
「は、は、は」
「血ですか」
「は、は、は」
「そうでしょう、あなたは生ている肉か、温かい血でなければ召上れない人なんですから、それは、わたしが先刻御承知ですから、いくらでも御意のままに供給して上げますよ。ですけれども、ここにいるような、いたいけな、やわらか過ぎるのはいけませんよ、こんなやわらかな肉ばかり食べていると、狼の牙が鈍ってしまいますね。脂《あぶら》ののった、もう少し肉のただれた、そうして歯ごたえのある骨つきの肉でなければ、食べてはなりません」
「は、は、は」
「今、あなたの要求する、ちょうど、あなたのお歯に合うようなよい肉を、わたしがそこへ持って行ってあげるから」
 お銀様の言葉が、ここで異様に昂奮し出して、ひらりと身をのし上げたかと見ると、対岸にいる人に向って吸いつくように飛びかかったのを見て、
「あれ危ない」
 お雪ちゃんがそれを遮《さえぎ》り止めようとしたのか、また自分ももつれ合ってそれと一緒に飛んで行こうという気になったのか、その途端に自分だけがハネ返されて、後ろの岩壁へ仰向けに打ちつけられてしまいました。
 そうすると、絶対的の向う岸で、
「ホ、ホ、ホ、あなたはここへ来られません、そこで見ていらっしゃい」
 お雪ちゃんは眼前で、お銀様という人の肉体の怖ろしい躍動を見せられてしまいました。
 その怖ろしい躍動を真似《まね》るだけの力も、妨げるだけの力もないお雪ちゃんは、歯を食いしばって、眼を閉づるよりほかはありません。
 一旦つぶった眼を開いて見ると、欄干のあったと思う対岸には、鉄の棒の荒格子がすっかりはめられていて、その中は以前と同じ洞窟のようでありますけれど、白衣《びゃくえ》に尺八のすさまじい風流人の姿は見えず、大きな鳥の羽ばたきの音が聞えました。
 それは昼のうちから自分たちの視覚を攪乱《こうらん》していた大鷲が――この牢の暗い中に、ただ一羽、空で見たところよりも、こうして捕われているところを見ると、五倍も十倍も大きく、獰猛《どうもう》に見えるのでしたが、その大鷲がこちらには頓着せずして、しきりに下を向いて、その鋭い嘴《くちばし》を血だらけにして何をかつついて食べている。深い爪でしっかと抑え、その血だらけの鋭い嘴の犠牲にあげられているものを何者かと見ると、ああ、それは今のお銀様です。お銀様は、大鷲の両足にしっかり押しつけられて、面《かお》といわず、胸といわず、ところきらわず、その深い嘴でつついては食われつつあるのです。
「あ、お嬢様! お嬢様!」
と、お雪ちゃんは絶叫して、自らあの残酷の中へ身を投じたお嬢様の不幸な運命に怖れおののいたが、一つおかしいことは、さほど残酷な犠牲となって、猛鳥のために貪《むさぼ》り食われつつある当のお嬢様が、少しも苦痛の表情をもせず、助けを求めるの声をなさず、為《な》さるるがままに、食わるるがままに任せて、そうして、死んでいるのではない、かえって、その猛鳥の加える残酷と、貪欲《どんよく》と、征服とを、相当に心地よげに無抵抗に、むしろ、うっとりとしてなすがままに任せている、そのお銀様の態度に、お雪ちゃんが、あの猛鳥の為す業より、なお一層の残忍さを覚えて、
「お嬢様、あなたは――」
と言った時に、目が醒《さ》めました。枕もとで、
「お雪ちゃん、わたしはいま帰って来たところです、あなたは夢にうなされていましたね」
 それは現実の弁信の答えであって、驚いて見ると障子が白くなっておりました。
 弁信法師は、昨夕のあの大風に、無事に帰れて、今朝、たった今、ここへ立戻って来たところに相違ありません。

         十五

 関ヶ原の模擬戦に於て、予定の如く大勝利を収め得た道庵先生は、本来ならば、あれからひた[#「ひた」に傍点]押しに、近江路を京阪に押し寄せるべきはずでなければならないのに、どういうわけか、不意に道を胆吹山の方へ向って枉《ま》げてしまいました。
 それはあえて古《いにし》えの、小碓《おうす》の皇子の御あとを慕って、胆吹山神を退治せんがための目的でもなし、またどこまでも関東の大御所気取りで、胆吹の山の草の根分けても、石田の行方を探し求めんとする軍略でもなく、実を言うと、胆吹山という山は、御承知の如く薬草の種類の多いことにおいては日本一といってよろしいことになっているから、商売柄、この薬草の現場を視察して行こうと考えたまでのことであります。
 それが主たる目的で、それから同時に我儘《わがまま》なあの女王様の植民地へ、大切の従者米友を貸してやってある見舞がてら、ちょっと立寄ってみようとしたまでのことであります。お銀様のために米友を手ばなした道庵は、なんとなく手のうちの珠《たま》を落したような気分がしないではないが、それでもこれからの道中、同じ江戸っ児、鉄火のようなお角さん親方と道連れの約束が出来たことによって、補われようというものです。
 万事、暴女王の御意のまま、お気の済むようにさせておいて、お角さんは、道庵の面倒を見ながら、自分は京阪へ出発してしまった方が、事がテキパキと行くと考えました。そうして置いて、戻り道に立寄って見れば、この暴女王様の御意の変ることもあろうと考えたのですが、ここでまた道庵先生までが急に、薬草研究のために胆吹入りをしたいから、一日二日のところ暇をもらいてえと言い出したのにも、一向さからわず、
「はいはい、どなた様もお気の向くようになさいまし、そういうわけでしたら先生、大津でお待ち申しておりましょう、大津の鍵屋というへ宿を取って、わたしたちはゆるゆる八景めぐりでもしておりますから、薬草の御用がすみましたら、あの宿へたずねていらっしゃい。先生お一人ではいけませんから、庄公をつけて上げましょう。庄さん、お前、先生のおともをして胆吹山へお参りをしたら、その足で、江州《ごうしゅう》の大津の鍵屋伝兵衛といってたずねておいで……」
 心ききたる若者を一人わけて、道庵のために附け、そうして道庵を北国街道に送り込み、お角さんは、そのまま残る手勢を引具《ひきぐ》して、銀杏《ぎんなん》加藤一行のあとを追って近江路を上りました。
 こうして、いい気な模造大御所は、関ヶ原から北国街道へ送り込まれたはずなのが、どういう拍子か、フラフラとまた関ヶ原へ舞い戻って来て、すべての面《かお》なじみがみんな出かけてしまったあとで、何か少し宿にまごまごしていたが、再び出発の時は、北国街道へ向わないで、順路を柏原方面へ向けて歩き出したのは、北国街道筋に何か道路の故障があったのかとも思われます。
 とにかく、道庵先生だけが急に胆吹入りという模様がえになったために、この際、草津の姥《うば》ヶ餅《もち》の別室で、安直、金茶の一行に一つの緊急動議が持ち出されました。
 三ぴん連がいよいよ出発間際になって、忽《たちま》ちに円卓会議を開き、議長がプロ亀、それに安直、金十郎、エド蔵、ゲビ蔵、薯作《いもさく》、テキ州、古川をはじめ、三ぴん連の鉄中|錚々《そうそう》とまでは行かなくとも、ブリキ中のガサガサくらいのヨタ者|御定連《ごじょうれん》が席につき、この御定連の顔ぶれのうち、珍しくも紅一点の村雨女史という別嬪《べっぴん》が一枚、差加わったのは、いつも同じ顔ぶれの三ぴんばかりで、同じ楽屋落ちをやっていては、さすがの議長プロ亀も気がさす申しわけを兼ねての色どりと見えます。そこで議長プロ亀の動議を聞いていると、
「我々が常日頃、道庵退治のために、いかばかり肝胆《かんたん》を砕いているかは御存じの通り、江戸表に於ては三文安の喬庵《きょうあん》を押立て、十八文の看板を横取りしようとたくんだが、残念ながら物にならず、名古屋表に於ては、安直に大日本剣聖と向うを張らせておどかしたが、かえって枇杷島橋《びわじまばし》での藪蛇《やぶへび》、あっぱれ道庵に武勇の名を成さしめてしまった。我々三ぴんがこうまで心を合わせ、きゃつ道庵めの眼に物見せてくれんと浮身をやつすのに、きゃつ道庵めは、しゃあしゃあとして我々三ぴん連を眼中に置かぬ振舞、関ヶ原に於て大御所気取りのあの傍若無人――このまま道庵を上方《かみがた》に入れて、我々の縄張を荒させては、我々三ぴんの飯
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